NOVLUM

星譜の声

第二章「黄昏の都市」

第12話「大楢の弦」

公開:2026.07.13 ・ 3,175文字

大楢の弦

大楢の影の芯で、夜の底よりも深い温度が、ひと節、ライラの踝の高さで、応えた。

影の内側の、いちばん深い場所に、ひとりの人影が、いた。 街道の脇の、根の張った瘤の上に、片膝を折り、もう片方の膝の腹に、古い木の楽器を、置いていた。 楽器の形は、修道院の書物の余白でも、ライラは、視た覚えが、無かった。 弓の型に近い、けれど、弦は、三本。木の枠のいちばん古い場所に、薄く、銀の名残が、沈んでいた。

「静かに、来た」

低い声だった。 声の低さの奥のところに、修道院の朝の鐘のいちばん低い音より、ひと節、乾いた温度が、あった。

ライラは、影の縁の、いちばん外の砂利の上に、素足を、置いたまま、進まなかった。 影の内側の、いちばん深い場所は、大楢の枝葉が、夜のあいだに落ちてこなかった薄い霧を、ひと節、抱えていた。 その霧のいちばん芯の温度が、外套の毛織の裏地の藍と、確かに、同じ深さだった。

男は、顔の上半分を、フードで、隠していた。 下顎の線だけが、朝のいちばん最初の残光の中に、細く、置かれていた。 歳の見当を、ライラは、まだ、つけられなかった。 ただ、指の関節だけが、修道会の誰の指よりも、ひと回り、乾いていた。

「弦の温度で、視えた」 男は、右手の親指の腹を、いちばん低い弦の、ちょうど半ばに、置いた。 「ひとり、閂を越えて、この影のほうへ、辿ってくる子が、いる、と」

ライラは、答えなかった。 答えの代わりに、外套の裾の内側で、右手の中の石片を、ひと節、握り直した。 握り直した石片の芯の温度が、大楢の霧の温度に、ひと節、近づいた。

男の親指の腹が、弦の上を、ほんの一節、押さえた。 押さえた音は、鳴らなかった。 けれど、その押さえた温度の芯のあたりから、紫がかった藍が、弦の表面に沿って、ほんの細く、立ちのぼった。

——藍。

ライラの喉の奥のいちばん深い場所が、ひと節、震えた。 震えた震えの下で、右手の中の石片が、藍の芯の温度と、同じ節を、応えた。 彼女は、その応えを、外套の裾の内側で、飲み込まなかった。 飲み込む前に、素足の指の付け根のあたりから、藍が、ほんの細く、影の内側へ、走った。

男は、その走った藍を、視た。 視た拍子に、下顎の線が、ひと節、上のほうへ、傾いた。 笑ったのかもしれない。ただ、笑いの音は、鳴らなかった。

「東の街道は、昼の光の下でも、視られています」 男は、弦の上の親指を、ひとつ、離した。 「あなたの越えた閂の位置は、もう、東の都市の縁のいちばん外の見張り塔まで、伝わっている」

ライラは、大楢の枝の、いちばん低い枝を、ひと節、視あげた。 枝葉の芯の場所に、遠くの都市の側の空の、灰の帯の温度が、細く、沈みかけていた。 そのいちばん奥の場所に、ほんの細く、橙が、まだ、応えていた。

「見張り塔——」 ライラの声は、自分でも、思ったよりも、低く、出た。 「その街の、名前は」

男は、答える前に、弦のいちばん高い音の上に、親指を、ひと節、移した。 移した親指の下で、藍は、ほんの細く、色相を、緑寄りに、傾けた。

——怒り、あるいは、抗議。

「カントゥア」 男の声は、その色に合わせて、ひと節、乾いた。 「学者の街です。あなたを、街の学院が、視ようとしている。街の縁の宿場に、遣いを、置いた」

カントゥア。 ライラは、その名前を、外套の内側の右手の中で、ひと節、握り直した。 名前は、修道院の書物のいちばん古い章の脇に、薄く、ひと節、読んだことが、あった。 けれど、その名前が、いま、自分の踝の高さの藍と、同じ節に、応えるとは、思っていなかった。

「学院は、なぜ、私を」 ライラは、影の縁のいちばん外の砂利の上で、素足の指を、ひと節、握った。 「学院は、修道会の側の、封印の名簿を、視るはずが、無い」

男は、弦の上の親指を、そのまま、離さなかった。 離さないまま、その芯のところで、影の内側の霧を、ひと節、押した。 押された霧の中から、ほんの細く、乾いた音が、鳴った。 それは——ライラの右手の中の石片が、内側から、ひと節、応えた、あの温度と、確かに、同じ音、だった。

「学院は、封印の名簿は、視ません」 男は、続けた。 「学院が、視ているのは、石片、です」

石片。 ライラの喉の奥のいちばん深い場所が、もう一節、震えた。 震えた震えの下で、修道服の袖の奥の、あの朝の踊り場から拾った石の温度が、外套の毛織の裏地の温度に、ひと節、押しあがった。

——その石片の存在を、なぜ、この人は、知っている。

問いは、ライラの胸の芯のところで、静かに、震えた。 震えた芯のところで、彼女の右手は、無意識に、外套の裾の縫い目のほうへ、伸びかけた。 第一関節のあたりで、ライラは、自分の指を、止めた。 止めた指の下で、藍は、細く震えて、そのまま、縫い目の奥へ、引いた。

——触れれば、視てしまう。視てしまえば、聴きたくなる。

その禁じ手の順番を、ライラは、自分に、もう一度、言いきかせた。 それでも、胸のいちばん深い場所は、ひと節、明るい色のほうへ、傾きかけていた。 その色は、恐怖よりも、ひと回り明るい——けれど、罪に近い色、だった。

男は、弦の上の親指を、初めて、離した。 離した親指の腹に、ほんの細く、藍が、応えたまま、残っていた。

「大楢の下は、昼になれば、影が、細くなります」 男は、街道の東のほうへ、片手の甲を、ひと節、指した。 「細くなるうちに、宿場のほうへ、辿りなさい。宿場の名は——薄明亭。宿の主が、あなたの外套の裾の藍の色を、視るはずです」

ライラは、外套の裾のいちばん外の縫い目に、目を、落とした。 縫い目の芯の場所に、まだ、藍は、留まっていた。 それでも、その藍は、修道会の側の色より、ひと回り、深い温度で、宿場のほうへ、辿らせようとしていた。

背中のうしろで、遠く、修道院の朝の鐘の、三節目が、鳴った。 三節目の芯のところで、外壁の内側の砂利の上を、確かめる歩幅の靴音が、ひと足、辿った。 歩幅は、モランのでも、ニナのでも、なかった。

大楢の影の中で、男は、弦の上に、両手を、置き直した。 置き直した両手のちょうど下で、藍は、ひと節、太さを、変えた。 細い藍が、いちばん芯の場所で、純藍に、近づいた。

——悲しみ。

ライラは、その色の芯の場所を、視た。 視た先で、男のフードの下の下顎の線が、ひと節、こちらへ、傾いていた。 その傾きの奥のいちばん深い場所に、まだ、誰の名前とも、応えない、ひと節の間が、置かれていた。

「行きなさい」

男の声は、いま、ほんの一節だけ、ライラの外套の裾に、応えた。 「わたしは、あなたが、宿場の閾を越えるまで、この弦の温度で、あなたの藍を、見送るだけです」

ライラは、大楢の影のいちばん外の縁から、素足を、ひと節、東の街道のほうへ、進めた。 進めた足の芯のところで、外套の裾の藍が、宿場のほうへ、ほんの細く、指を、伸ばした。

背中のうしろの、修道院の外壁の内側では、確かめる靴音が、閂のほうへ、ひと足、また、辿っていた。 辿ってくる靴音の温度は、朝のいちばん高い光より、ひと節、低かった。

大楢の影の外で、ライラの素足の踵は、東の街道の砂利の、ちょうど半歩先の温度を、拾った。 拾った半歩先の温度の芯の場所で、遠くの街のいちばん外の縁の空が、ひと節、灰と橙の間で、応えかけていた。

弦の上の男は、もう、こちらを、視ていなかった。 視ていない代わりに、彼の親指の腹のいちばん深い場所に、ライラの右手の中の石片の温度が、ほんの細く、応えたまま、置かれていた。

——薄明亭。

その宿の名前を、ライラは、大楢の影の外で、初めて、自分の唇の内側で、ひと節、なぞった。 なぞった唇の芯のあたりに、修道院の朝の鐘の四節目の温度は、まだ、追いついてこなかった。

追いついてこない代わりに——街道の東の、灰と橙の空のいちばん下の場所から、ひと節、乾いた鐘の温度が、こちらへ、初めて、応えはじめていた。