第一章「仮面の日々」
第17話「討伐前夜」
公開:2026.08.25 ・ 3,195文字
選抜名簿は、告知の二日後に張り出された。
紙の一番上にレイナード・ヴァルクの名があり、その五つ下に俺の名があった。
——カイル・ヴェルデン/セレナ・グランハルト。
自分の名前を、俺は三度読み返した。読むたびに胃の底が冷えていった。
「選ばれたわね」
隣でセレナが言った。声に喜びはない。ただ事実を確認するだけの声だった。
「……ああ」
「当然よ。グランハルト家の娘が外されるわけがないもの」
胸を張って言い切ったが、布の上からアルカナ・コーデックスを握る指が、関節のところだけ白くなっていた。
任務説明は、その日の午後だった。
第三講堂に集められたのは、選抜された十二組。壇上に立ったエルザ教官は、いつもより声を張らなかった。張らないのに、全員の背筋が勝手に伸びた。
「掲示に『予備調査』と書いたのは、学院の体裁だ」
最初の一言で、講堂の空気が変わった。
「大陸間交易路の中継、隘路の森。荷馬車の隊が三週間続けて襲われている。確認されている魔獣の数は、三十を超える」
どこかで息を吸う音がした。
「調べに行くのではない。潰しに行く。濁して書いたのは保護者向けだ。お前たちには濁さん」
エルザ教官は一度だけ、講堂の端から端まで視線を往復させた。
「訓練の相手は、お前が構えるまで待ってくれる。魔獣は待たん。構えの途中で喉を裂きに来る。——死ぬぞ、何人か」
歓声を上げていた連中の顔が、一斉に固まった。掲示板の前で「武勲だ」と騒いでいた声は、もうどこにもなかった。
俺の隣で、セレナが微かに顎を引いた。怯えたのではない。息を一つ、飲み込んだ動きだった。
班の編成が読み上げられた。
第一班——レイナード・ヴァルク組、ガレス・ドルングラード組、そして俺たち。
名を呼ばれた瞬間、三列前の金髪が振り向いた。
説明が終わって人が散る頃、レイナードは迷いなく俺の前に立った。
「足を引っ張るな」
挨拶も前置きもなかった。
「感情で言っているんじゃない。記録の話だ。君のパートナーの火は、出力の立ち上がりが遅い。模擬戦なら許される遅さだ。実戦では許されない」
冷えた青い目が、俺の腰の布包みを一瞬だけ掠めた。気づいていないふりをするのが、日に日にうまくなっていく。そんな自分が嫌になる。
「死にたくなければ、下がっていろ。僕が前に出る」
「……善処する」
返した声が思ったより低く出て、自分で驚いた。
レイナードの背後から、赤みがかった茶のポニーテールが顔を出した。イレーネは俺を通り越して、セレナを真っ直ぐ睨んだ。
「……別に、あんたと組みたいわけじゃないから」
「奇遇ね。わたくしもよ」
「でもね」イレーネは一度言い淀んで、それから吐き捨てるように言った。「死んだら引き分けのままじゃない。迷惑なのよ、そういうの」
言い終わるより早く踵を返して、追いつけない速さで去っていった。
セレナが目を丸くしたまま、小さく呟いた。
「……何よ、あれ」
「死ぬなって言われたんだよ、たぶん」
「絶対違うわ」
絶対に合っている、と俺は思った。
入れ替わりに、壁が歩いてきたような影が差した。ガレスだった。
「おう! 同じ班か。心強いじゃねぇか」
「三十匹以上相手に、よくその顔ができるな」
「数が多いのは土の仕事だ。壁はうちの相棒が立てる。俺はその前に立つ。お前らは壁の内側から好きに焼け」
豪快に肩を叩かれて、足が半歩泳いだ。嘘のように気が楽になるのが、こいつの一番厄介なところだ。
説明のあった夜、俺は第四訓練場の隅にいた。
月明かりだけの地面に、リベリオを鞘ごと構える。布を外した柄頭が、夏の終わりの夜気に冷えていた。
抜けない。正確には——抜いてはならない。この刃が何をする剣なのか、見られた瞬間に全てが終わる。
(三十匹。森の中。見通しは悪い)
考えろ。考えろ考えろ考えろ——鞘のままで届く距離は、刃より指三本短い。斬れないぶん、当てる場所を選ぶしかない。顎、膝、喉の付け根。折る。崩す。殺すのは俺じゃない。
オルドーの声が耳の奥で鳴った。
——抜けぬ刃なら、抜かぬまま強くなれ。
初めて聞いた時は、禅問答か嫌がらせだと思った。今は違う。あの片目の老騎士は、たぶん最初から分かっていた。事情は聞かない。事情ごと強くなれと言っていたのだ。
鞘を返す。半歩踏み込む。止める。もう一本。
——問題は、もう一つあった。
鞘を振れば、握りが変わる。握りが変われば、吸い上げるマナの流れが一拍細くなる。エルザ教官の個別指導の夜に、嫌になるほど思い知らされたことだ。
俺が殴っている間、セレナの火は痩せる。
殴らなければ、的は止まらない。殴れば、火が弱る。
何度繰り返したか分からなくなった頃、背後で砂を擦る音がした。
「根を詰めすぎよ」
セレナが、柱の影から出てきた。寝間着の上に外套を羽織っただけの格好で、アルカナ・コーデックスだけはきっちり抱えている。
「お前もな」
「わたくしは散歩よ」
「杖持って散歩するやつがいるか」
言い返してこなかった。それだけで、何をしに来たのか分かってしまう。こいつも眠れていない。
セレナは訓練場の中央まで歩いて、何もない地面を見下ろした。
「……三十匹」
「ああ」
「わたしの火で、何匹焼けると思う」
名家モードが剥がれた声だった。俺は正直に答えることにした。
「俺が動くのをやめてから、まともな火になるまで三つ数える。的が止まってりゃ当たる。走られたら外す」
「率直ね。慰めなさいよ、少しは」
「慰めて死んだら寝覚めが悪い」
セレナが短く笑った。笑ってから、笑ったことを後悔したような顔をした。
「なら、どうするの」
「止める」
「……何を」
「的を止める。足か顎を折って、その場に縫い付ける。折ったら俺は手を止めて握りを固める。そこから三つだ」俺は鞘の先で地面に線を引いた。「お前は狙わなくていい。俺が止めた場所に置け。届かない火なら、俺が間合いを詰める」
風が訓練場の砂をひと撫でしていった。
セレナは長いあいだ、線を見ていた。
「……それ、あんたが一番死ぬ作戦じゃない」
「魔獣の正面に立つのは、元から俺の仕事だ」
「違うわ」声が尖った。「魔女の盾は盾よ。囮じゃない」
「五百メートル離れたら、俺の体はただの十六の餓鬼に戻る。離れる選択肢なんて、元からないんだよ。俺たちは」
反論が来なかった。
代わりにセレナは杖を抱え直して、ひどく小さな声で言った。
「……一つだけ約束しなさい」
「何だ」
「間合いを詰めるなら、必ず戻ってきなさい。置いた火を、あんたごと焼くのは——嫌よ」
最後のところだけ、声が震えていた。
「……善処する」
「今日二回目よ、それ」
それから三日。出発前夜。
寮の自室で、俺は武具を床に並べていた。革の胸当て、短刀、止血用の布。それから、布で幾重にも包んだリベリオ。
包み直す手が、途中で止まった。
明日の朝、門を出る。訓練場の柵の外へ。学院という檻の外へ。十六年生きてきて、何かを殺すために出かけるのは、明日が初めてだ。
扉が、ノックもなく半分開いた。
「荷、重くしすぎないで。走れなくなるわよ」
「……ノック」
「した気になったわ」
セレナは敷居のところに立ったまま、中に入ってこなかった。廊下の灯りが逆光になって、表情が見えない。
しばらく、虫の声だけがした。
「……死なないでよ」
床に置いたリベリオの布を、俺は一度撫でた。
「お前もな」
「当然よ。わたくしはグランハルト家の——」
言いかけて、やめた。名家の台詞を最後まで言わなかったのは、契約の儀式以来初めてかもしれない。
扉が静かに閉まった。
翌朝、学院の正門に十二組が並んだ。
夏の終わりの朝靄の中を、エルザ教官の声が一直線に飛んだ。
「出るぞ」
門が開いた。石畳が途切れ、土の街道が東へ伸びている。その先に、隘路の森がある。
隣を歩くセレナが、前を向いたまま言った。
「カイル」
「ああ」
「三つ数えるわ。……遅れないで」
俺は布越しに、リベリオの柄を握った。
抜けない剣と、届かない火。
偽物二つで、本物に会いに行く。