第一章「仮面の日々」
第16話「夏の休息」
公開:2026.08.18 ・ 3,118文字
上級課程に、三日の休暇が出た。
掲示が張り出された瞬間、教室が沸いた。入学からこっち、訓練と座学と個別指導で塗り潰されていた日々に、夏の隙間みたいな三日が降ってきたのだ。
「川だ!」
真っ先に叫んだのは、当然リオンだった。
「なあカイル、学院の北に川があるだろ。橋の下のあたり、水が浅くて冷てぇらしい。行くぞ、行くしかねぇ」
「行くしかねぇって何だよ」
「三日あって寮で寝てたら、一生後悔するタイプの顔してんだよ、お前」
余計なお世話だ、と言おうとして——言えなかった。たぶん図星だったからだ。
当日の朝、学院の裏門に集まったのは五人だった。
リオンとミラ。俺とセレナ。それから、どこで聞きつけたのか、荷物を肩に担いだ大男が一人。
「おう! 混ぜろ」
ガレスだった。赤毛の短髪に、朝の光がぎらぎら跳ねている。担いだ布袋からは、なぜか鉄鍋の柄が突き出ていた。
「名家のご子息が鍋担いで何してんだ」
「川で飯食うのに鍋が要らんわけねぇだろうが」
理屈が通っているような、まるで通っていないような顔で、ガレスは豪快に笑った。セレナが呆れたように溜め息をつく。
「……騒がしいのが一人増えたわね」
「騒がしいのは元からリオンだ」
「両方よ」
バッサリだった。リオンが「ひでぇ」と笑い、ミラが口元を押さえて笑った。
歩き出してすぐ、俺は妙なことに気づいた。
肩が、軽い。
(——ああ。今日は、見られてないのか)
レイナードの観測も、ヴィクトの薄笑いも、エルザ教官の鋭い眼も、ここにはない。布で包んだリベリオを腰から外して荷物に放り込んだだけで、背中が十年分若返ったような気がした。
川は、聞いていたよりずっとよかった。
石の橋をくぐった先に、白い河原が広がっている。水は膝くらいの深さで、底の小石まで透けて見えた。両岸から張り出した木の葉が光を砕いて、水面に斑の模様を落としている。蝉の声が頭上から降ってきて、足首から上ってくる冷たさと、ちょうど釣り合っていた。
リオンは当然のように服のまま水に飛び込み、ガレスがその隣で鍋を沈めて冷やしはじめた。ミラが裾をたくし上げて浅瀬に入り、「冷たい」と嬉しそうに声を上げる。
セレナは、河原の石の上に座ったままだった。
背筋を伸ばし、膝を揃え、アルカナ・コーデックスを布ごと抱えて。名家の令嬢の座り方だ。川に来てまで崩さないのか、と俺が呆れかけた、その時だった。
「セレナ」
ミラが、濡れた手をまっすぐ差し出した。
「来て」
「……いえ、わたくしは」
「来て」
二度目は、断る隙間がなかった。ミラは柔らかい顔のまま、こういう時だけ絶対に引かない。セレナの手首を掴んで、そのまま浅瀬へ引きずり込んだ。
「ちょ——ミラ、待ちなさ、冷たっ!」
名家モードの丁寧さが、一秒で剥がれ落ちた。
裾をびしょ濡れにして、足元の石に滑りかけて、セレナが両手をばたつかせる。リオンがすかさず水をかけ、セレナが「最低!」と叫び返し、反撃に水を蹴り上げる。ガレスの馬鹿でかい笑い声が川に反響した。
俺は河原の石に腰を下ろしたまま、その光景を見ていた。
水を蹴って笑っているセレナは、名家の次期当主でも、偽物の魔女でもなかった。
ただの、十六の娘だった。
(……こんな顔、するのか)
契約の儀式の日から、数えるほどしか見ていない顔だ。見ないふりをする約束が自分の中にあった気がして、俺は目を逸らした。
昼は、ガレスの鍋だった。
中身は雑だ。干し肉と芋と塩。それだけ。それだけなのに、川の水で冷やした果実と一緒に食うと、学院の食堂の何より旨かった。
食い終わって、リオンとミラとセレナが下流の方へ石を探しに行った後、河原に残ったのは俺とガレスだけになった。
「なあ、ヴェルデン」
ガレスは鍋を砂で擦りながら、顎で下流をしゃくった。
「お前とグランハルトのお嬢さんよ」
手が、一瞬止まりかけた。
(——来たか)
「何だよ」
「見てて面白ぇんだよな、お前ら」ガレスはにやりと笑った。「口じゃ一っつも噛み合ってねぇ。片方が右っつったら片方が左だ。見てるこっちが疲れる」
「……自覚はある」
「だがな」
鍋を擦る手が、止まった。
「訓練場での動きは、誰よりも噛み合ってる」
川の音が、急に大きく聞こえた気がした。
「先週の模擬戦、見てたぞ。お前が踏み込む半歩前に、あの子はもう火を置く場所決めてやがった。目も合わせずにだ。合図もねぇ。声も出してねぇ」ガレスは鍋をひっくり返して水を切った。「あれはな、仲がいいとか悪いとかの話じゃねぇ。相手の癖を、自分の癖より信じてる奴の動きだ」
返す言葉が出てこなかった。
俺は知っている。あれは信頼なんて綺麗なもんじゃない。五百メートルという鎖と、リベリオという秘密と、偽物の火という事情が、俺たちを無理矢理同じ檻に押し込めているだけだ。
だが——檻の中で何か月も足踏みしていれば、歩幅くらいは覚えてしまうのかもしれない。
「……別に、そんな大層なもんじゃない」
「ほらそれだ」ガレスは声を上げて笑った。「お前ら二人とも同じことを言うんだよ。見てる奴にしか見えねぇもんってのが、世の中にはあんだ」
下流の岩陰から、声が切れ切れに流れてきた。
盗み聞きをするつもりはなかった。ただ、川が音を運んできただけだ。あの夕方の訓練場の壁越しと、同じように。
「セレナ」ミラの声だった。「最近ね、ちょっとだけ、楽になった顔してる」
返事までに、少し間があった。
「……そんな顔、してないわよ」
「してるよ」ミラは引かなかった。「入学したばっかりの頃のセレナ、いつも息止めてるみたいだった。今は、ちゃんと吐いてる」
水の跳ねる音。沈黙。それから、ずいぶん小さな声。
「……勘違いしないで。何も解決してないわ。何も」
「うん」
「何ひとつ、楽になんて、なってない」
「うん」
ミラは、それ以上何も言わなかった。否定もしなかった。
セレナも、それ以上何も言わなかった。
否定し切れなかったのだと、俺は思った。
帰り道は、夕焼けだった。
リオンが濡れた服のまま歌い、ガレスが音程を一切無視して合わせ、ミラが笑い、セレナが「恥ずかしいからやめなさい」と叫んだ。学院の門が見えてくる頃には、全員が喉を枯らしていた。
三日の休暇は、そうやって終わった。
——終わって、しまった。
寮へ続く回廊の手前、中央掲示板の前に、人だかりができていた。
足が勝手に速くなる。人の肩の隙間から、貼り出されたばかりの告知が見えた。墨の匂いがまだ新しい。
——上級課程選抜対外任務告知。
——大陸間交易路周辺における魔獣群の予備調査。
——引率:エルザ・ヴァイスハウプト教官。
訓練じゃない。模擬戦でもない。学院の外で、生きた魔獣と向き合う任務だ。
周囲のざわめきが、一気に熱を帯びていく。「選抜って誰だよ」「レイナードは確定だろ」——歓声に近い声。初めての実戦を、武勲の機会としか思っていない声。
隣で、セレナが告知を見つめていた。
濡れた髪が、まだ乾ききっていない。河原で水を蹴っていた娘の顔は、もうどこにもなかった。仮面が——名家の次期当主の顔が、音もなく戻ってきている。
彼女が、布の上からアルカナ・コーデックスを握り直した。
俺の手も、無意識にリベリオの柄を探していた。抜けない剣。外から注がれる火。魔獣は、訓練相手のように待ってはくれない。
「……カイル」
セレナは、掲示から目を離さないまま言った。
「今日のこと」
「ああ」
「誰にも言わないで。わたしがはしゃいだとか、そういうの」
俺は少し考えてから、答えた。
「……覚えとくのは許せ」
セレナは何か言い返そうとして、やめた。かわりに、告知の紙を睨んだまま、短く息を吸った。
夏の終わりの風が、掲示板の端をぱたぱたと鳴らしていた。
休息は、ここまでだった。