第一章「仮面の日々」
第18話「初陣」
公開:2026.09.01 ・ 3,030文字
隘路の森に入ったのは、学院を出て三日目の昼過ぎだった。
名前のとおりの場所だ。街道は人が三人並べば肩の触れる幅まで痩せ、両側から木が覆いかぶさっている。夏の終わりの昼だというのに、葉の天井の下は夕方みたいに暗い。
荷馬車の轍が、何箇所かで途切れていた。
消えているんじゃない。途切れているのだ。そこで何かが、荷ごと持っていったから。
「止まれ」
先頭のエルザ教官が手を挙げた。十二組の足音が、一斉に死んだ。
風が止んでいる。鳥が鳴いていない。
学院の訓練場にはなかった種類の静けさが、首の後ろに張りついた。
「第一班、前へ」
呼ばれて進み出る。レイナードとイレーネ、ガレスと土の魔女、そして俺たち。
布越しにリベリオの柄を握った瞬間、視界の輪郭が一段硬くなった。契約の力だ。心臓が速くなったぶん、世界のほうがゆっくり動く。
隣でセレナが杖を構えた。
構えた、というより——抱えていた。
(手が硬い)
気づいてしまった。あの夜、訓練場の砂に線を引いた時よりずっと、こいつの指は固まっている。
「セレナ」
「……何」
「三つ数えろ。それだけでいい」
返事の代わりに、顎が一度だけ動いた。
その直後、右の斜面の下生えが、内側から弾けた。
最初に来たのは匂いだった。
獣の脂と、腐った鉄を混ぜたような臭い。吐き気を飲み込んだ時にはもう、黒い影が四つ、街道に躍り出ていた。
狼に似ている。似ているだけだ。肩の高さが俺の胸まであり、毛のあいだから青白い光が脈を打つように漏れている。目に濁りがない。それが一番怖かった。迷っていない目だ。
「囲まれるぞ! 背中合わせろ!」
ガレスの怒鳴り声。地面が盛り上がり、土の壁が半円に立ち上がる。相棒の魔女の仕事だ。速い。迷いがない。
一匹が壁の切れ目から飛び込んできた。
「セレナ!」
俺は半歩下がって握りを固めた。動かない。吸い上げるマナの流れを、一本の太い線にする。
一つ。
二つ。
三——
火が出た。
出たが、細かった。
セレナの杖先から伸びた炎は、訓練場で何度も見たあの火より、明らかに痩せていた。魔獣の脇腹を舐めて、毛を焦がして、それで終わった。
獣は止まらなかった。
「——っ!」
考えるより先に体が出た。鞘ごとのリベリオを横に振って、飛びかかる顎を下から弾く。手首に痺れが走った。重い。訓練用の丸太とはまるで違う、生きたものの重さだ。
弾かれた獣が地面を転がり、すぐに四肢で立ち直る。
その一瞬で、火が消えていた。
俺が振ったからだ。
(分かってた。分かってたはずだ)
殴れば火が痩せる。殴らなければ的が止まらない。訓練場の砂の上では、何度も確かめたことだった。
でも、あそこには三十匹いなかった。
土の壁の外側で、影の数が増えていく。五つ、七つ、十。数えるのをやめた。
「カイル! 右!」
セレナの声。振り向きざまに鞘を立てて、横から来た牙を受ける。受けた瞬間、また握りが崩れる。また火が細くなる。
背後でセレナが歯を食いしばる音がした。
「出なさいよ……! 出なさいってば!」
杖先が何度か明るくなって、そのたびに萎んだ。名家の令嬢が魔獣を前に手こずっている——周りにはそう見えているだろう。
違う。
全部、俺のせいだ。
(落ち着け。考えろ。考えろ考えろ考えろ——)
頭の中で同じ言葉が回りはじめた時、左から熱が来た。
視界の端が白く灼けた。
イレーネの火だった。
杖を持っていない手を前に突き出した姿勢のまま、彼女は三匹をまとめて薙ぎ払っていた。細い炎じゃない。芯のある火だ。当たった個体が声も上げずに崩れ落ちる。
その半歩前に、レイナードが立っている。
剣を抜いていた。当たり前のように、抜いていた。
彼は斬らなかった。斬る必要がないのだ。獣の進路に刃の腹を置き、半歩体を開いて、向きだけを変えさせる。向きを変えさせられた獣の喉は、必ずイレーネの正面に来ていた。
会話が、ない。
合図も、視線のやり取りも、何ひとつない。
ただ、置く。ただ、焼く。
——これが、本物の連携か。
胸の奥を、冷たいものが通った。悔しさですらない。もっと手前の、ただの距離の確認だ。あそこと俺たちのあいだには、練習量では埋まらない何かがある。
レイナードが、一瞬だけこちらを見た。
何も言わなかった。言われるより応えた。
一匹が、壁の上を跳んだ。
狙いはセレナだった。
杖を構え直している最中の、一番無防備な一瞬。獣はそれを選んだ。迷いのない目が、正確にそこを選んだ。
間に合わない。
振っても間に合わない。振れば火が消える。消えた火では何も止まらない。
——抜けぬ刃なら、抜かぬまま強くなれ。
片目の老騎士の声が、頭蓋の内側で鳴った。
あの朝、小屋の前の土の上で、何百回も打ち込まされた。剣を振る稽古じゃなかった。足の置き場所と、体の向きと、相手の崩れる方向だけを、延々と。
——武器に頼る剣だ。甘い。
振らない。
俺は鞘を握ったまま、前に出た。
跳んだ獣の下に潜り込む。空中の相手は向きを変えられない。肩を当てて軌道を殺し、右の前肢を肘で内側に折り込む。握りは、崩さない。柄を持った右手は、ただの錘として胸に抱えたままだ。
着地した獣が、折れた前肢で地面を掻いて泳いだ。
止まった。
「セレナ!」
「——三つ、数えたわよ!」
熱が背中を追い越していった。
細い火だ。イレーネのそれとは比べものにならない、頼りない一条。
でもそれは、止まった獣の喉の付け根に、寸分違わず通った。
獣が崩れる。青白い脈が消える。
俺は荒い息のまま、一度だけ振り返った。
セレナが杖を下ろさずに立っている。顔色は紙みたいに白い。それでも、目だけは一切逸れていなかった。
「……一匹」
「一匹だな」
「三十匹以上いるって言ってたわよ」
「知ってる」
笑う場面じゃないのに、口の端が勝手に動いた。嘘みたいに手が震えている。それでも、一匹だ。
偽物の火と、抜けない剣で、一匹。
土の壁の外で、影の数が目に見えて減りはじめていた。
ガレスが壁を崩して前に出る。レイナードとイレーネが左を掃く。十二組の訓練生は、思っていたよりずっと強かった。
勝てる、と誰かが言った。
言った直後に、森が鳴った。
風じゃない。木が揺れたのでもない。もっと下——地面そのものが、一度だけ短く呻いた。
生き残っていた魔獣たちが、一斉に動きを止めた。
俺たちを見ていない。森の奥を見ている。
そして——下がった。
殺し合っていた相手に背を向けて、音も立てずに木立の中へ退いていく。
喉が鳴った。
(待て。こいつら、逃げてるんじゃない)
道を、空けている。
葉の天井の向こうで、何かが一歩踏み出した。一歩で、枝が何本も折れる音がした。青白い光が幹のあいだから漏れて、暗い森の奥が、ゆっくりと明るくなっていく。
俺の握っているリベリオが、布の下で熱くなった。
こんな量のマナを吸ったことは、一度もない。
「——退くぞ」
エルザ教官の声だった。
訓練場で一度も聞いたことのない速さで、短く、鋭く。
「全班、街道を西へ。走れ。——あれは、訓練生の手に負える相手じゃない」
誰も言い返さなかった。学院首席でさえ、剣を下ろして踵を返した。
走り出す直前、セレナが俺の袖を掴んだ。
「カイル」
「分かってる」
「……分かってないでしょ」声が掠れていた。「あんたの剣、今、吸ってる」
布越しでも分かるほど、柄は脈を打っていた。
俺たちが逃げようとしているものは、歩いているだけで、森一つぶんのマナを押しのけている。
偽物二つで一匹倒して、浮かれかけていた自分を殴りたくなった。
本物は、まだ一歩も出てきていない。