第一章「仮面の日々」
第10話「師の剣」
公開:2026.06.30 ・ 3,090文字
その日、訓練が終わった後、俺だけがエルザ教官に呼び止められた。
「カイル・ヴェルデン。残れ」
短い一言だった。セレナが「……何かやらかしたの?」という顔で、こちらを窺ってくる。俺にだって、心当たりはない。リベリオを抜けない分、所作でごまかす綱渡りは、まだバレていないはずだ。
「先に戻ってろ。すぐ追いつく」
そう言うと、セレナは訝しげに眉を寄せながらも、寮のほうへ歩いていった。彼女が訓練場を出て、五百メートルも離れれば、俺の身体能力向上は途切れる。途端に、世界がいつもの鈍さを取り戻していく。手足が、急に重くなった気がした。
「お前の剣の話だ」
エルザは前置きなく言った。銀髪に、鋭い眼差し。相変わらず無駄がない。
「七話の——いや、先日言ったな。お前の剣の握り方は、剣士のものじゃない、と」
覚えている。忘れられるはずがなかった。
「あれから見ていた。お前は、確かに動ける。だが、それは——身体能力向上に乗っているだけだ。土台が、ない」
図星だった。俺の強さは、セレナが傍にいる時だけの、借り物だ。脳の奥の枷が緩んで、筋が勝手に張り詰める。けれどそれは、俺自身が鍛えたものでは、何ひとつ、なかった。
「お前には、剣の師が要る」
エルザは、懐から一枚の紙片を取り出した。簡素な地図だ。
「学院の裏手、森の外れに、偏屈な男が住んでいる。オルドー・バルザス。——昔、最強と謳われた騎士だ」
森の外れの小屋は、世界から忘れられたような佇まいをしていた。
苔むした屋根。傾いた薪小屋。井戸の脇には、錆びた鍬が立てかけてある。とても、最強と謳われた騎士の住処には見えなかった。
扉を叩く前に、声がした。
「紹介状か」
振り返ると、薪を抱えた老人が立っていた。白髪交じりの短髪。顔には、古い傷跡。がっしりした体格だが、どこか枯れている。——そして、左目を、黒い布で覆っていた。
「エルザの差し金だな。あいつは昔から、厄介ごとを他人に押しつける」
枯れた声だった。けれど、右目だけが、刃のように鋭い。たった一目で、値踏みされている。俺の立ち方、重心、呼吸——その全部を。
「カイル・ヴェルデンです。剣を、教わりに来ました」
「教わる、か」
オルドーは薪を地べたに放ると、小屋の軒下から、二本の木剣を取り出した。一本を、俺に投げてよこす。
「構えてみろ」
俺は木剣を構えた。
いつもの感覚は、ない。セレナは寮にいる。五百メートルの圏外だ。身体能力向上のない、素のままの俺。それでも——基本の構えくらいは、できるつもりだった。
(落ち着け。相手は老人だ。身体能力向上も、失って久しい退役騎士だ。慎重に——)
考えるより、早かった。
視界が、回った。
気づいた時には、背中から地面に叩きつけられていた。肺の空気が、一瞬で抜ける。喉の奥で、呻き声が潰れた。
何が起きたのか、分からなかった。
ただ、木剣の切先が、俺の喉元に、静かに添えられている。
「遅い」
オルドーが、見下ろしていた。
「武器に頼る剣だ。甘い」
「……俺は、身体能力向上に頼って——」
「それも含めて、武器だ」
右目が、冷たく光る。
「借り物の速さ。借り物の力。お前の剣は、パートナーが傍にいなければ、何もできん。——今のお前が、その証だ」
反論できなかった。圏外の俺は、ただの非力な少年だ。それを、この老人は、構えた一瞬で見抜いた。
「もう一本」
二度目も、転がされた。三度目も。四度目も。
身体能力向上の乗らない素の俺は、老人一人に、手も足も出なかった。息が上がる。掌が擦り切れる。それでも、オルドーの呼吸は、乱れひとつ、なかった。
いつもの俺なら、ここまで一方的には、やられない。セレナさえ近くにいれば。——そう思いかけて、ぞっとした。それは、まさにこの老人が突いた、俺の急所そのものだった。
陽が傾く頃、俺は地べたに座り込んでいた。
オルドーが、井戸の水を汲んで、木の椀を差し出してきた。意外な労わりに戸惑いながら、受け取る。
「老人一人に、勝てなかったな」
皮肉ではない声だった。隣に腰を下ろした老騎士の横顔は、夕陽に染まって、どこか遠くを見ていた。
「俺も、昔は身体能力向上に乗っていた。最強と呼ばれた頃はな」
今は——という言葉は、布に覆われた左目が、語っていた。
「二十年前だ。戦で、相棒を亡くした」
相棒。——パートナーの魔女のことだ、と直感した。
「あいつが死んだ瞬間、身体能力向上は、永遠に消えた。脳の奥の熱が、二度と戻らなくなった。借り物の強さなど、所詮、そういうものだ」
声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。相棒を語る時だけ、枯れた老人の中に、若い何かが灯る。それを見て、俺は、訊いてはいけないことを訊いた気がして、口を噤んだ。
「だが、俺は生き延びた。身体能力向上を失っても、純粋な剣技と経験だけでな。——だから、言える。お前の剣には、土台がない。借り物が消えた瞬間、お前は死ぬ」
ぞくり、とした。
もし——セレナが、俺の傍から消えたら。もし、五百メートルの圏外で、戦わなければならない瞬間が来たら。今の俺は、何ひとつ、守れない。
「……教わります」
気づけば、頭を下げていた。
「借り物じゃない剣を。——俺に、土台をください」
オルドーは、しばらく黙っていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「明日も来い。夜明けと共に。一日でも遅れたら、二度と敷居は跨がせん」
帰り際、小屋の戸口で、オルドーがぽつりと言った。
「小僧。一つ、聞かせろ」
振り返ると、老騎士の右目が、夕闇の中で、妙に深く据わっていた。
「この世界の魔法が——何から生まれたか。お前は、考えたことが、あるか」
思いがけない問いだった。
魔法は、魔法だ。マナを操る力。生まれ持った素質。——誰もが、そう信じている。何から生まれたか、なんて、考えたことも、なかった。
「さあ。——昔から、在ったもの、じゃないんですか」
オルドーは、答えなかった。
ただ、布に覆われた左目の側を、ゆっくりと俺に向けた。見えないはずの眼が、何か途方もないものを見つめているような——そんな錯覚を覚えた。
「長く生きると、な」
老騎士は、戸を閉めながら、独りごつように言った。
「当たり前のものほど、何かがおかしいと、気づく瞬間がある。——忘れろ。今は、剣だけ考えていろ」
戸が、閉まった。
森の帰り道、俺は何度も、その言葉を反芻した。この世界の魔法が、何から生まれたか。——老人の戯言だと、思おうとした。思おうとして、できなかった。
擦り切れた掌が、ひりひりと痛む。
圏外を抜けて、学院の灯りが見えた途端、脳の奥に、ふっと熱が戻ってきた。身体が、軽くなる。——セレナが、圏内にいる。
借り物の強さ。失えば、何も残らない力。
明日から、俺は、自分だけの土台を築き始める。偽物の剣士が、ほんの少しでも本物に近づくための、最初の一歩を。