第一章「仮面の日々」
第9話「首席の眼」
公開:2026.06.23 ・ 3,293文字
初夏の風が、訓練場の砂を薄く攫っていく。
学院に来て、ひと月半。中庭の若葉はすっかり色を濃くして、朝の日差しには、もう汗ばむほどの熱があった。俺——カイル・ヴェルデンは、列の端に立って、真新しい顔ぶれを眺めていた。
上級訓練課程。基礎課程の上位者だけが選抜される、学院の精鋭クラスだ。
選ばれたのは、二十人ほど。その中に、俺とセレナの名前もあった。
「……まさか、通るとは思わなかった」
隣で、セレナが小声で呟いた。名家モードの仮面の下に、ほんの少しだけ、安堵と緊張が混じっている。
「お前が通らなきゃ、誰が通るんだよ」
俺は肩をすくめた。偽物の火でも、彼女の戦術の冴えと知性は本物だ。机上の戦なら、この学院でセレナに敵う者は、そう多くない。
ただ——上級課程は、机上では済まない。
動きながら戦う実戦形式が、格段に増える。俺がリベリオを抜けない制約が、ここから先、重くのしかかってくるはずだった。
「整列」
壇上に立ったエルザ教官が、短く告げた。銀髪に、鋭い眼差し。無駄のない所作は、相変わらず軍人そのものだ。
「ここからは遊びではない。家名は置いてこい。物を言うのは、実力だけだ」
その言葉に、列の前方で、一人の少年が静かに頷いた。
金髪を後ろに流し、背筋は定規を当てたように真っ直ぐだ。隙という隙が、どこにもない。冷たい青い眼が、教官の言葉を一字も逃すまいと据えられていた。
「……レイナード・ヴァルク」
セレナが、息を呑むように囁いた。
「学院首席。名家じゃない出で、努力と才能だけで頂点に立った人よ」
名家じゃない。その一言が、なぜか胸に刺さった。正しい努力だけで、誰にも文句を言わせない場所に立った男。偽物の手段で戦う俺たちとは、何もかもが逆だった。
レイナードの隣には、赤みがかった茶髪を高く結んだ少女がいた。気の強そうな、吊り気味の眼。彼のパートナーの魔女——イレーネだ。火属性だと、噂に聞いていた。
火属性。俺は、無意識に布で包んだリベリオの柄を握り直した。
訓練は、まず互いの力量を知る組手から始まった。
順番を待つ俺の背中を、不意に、大きな掌が叩いた。
「おう、新顔!」
振り返ると、赤毛の短髪を陽に灼いた、大柄な少年が笑っていた。俺より頭ひとつ分は背が高い。筋肉の鎧を着たような体格だが、笑顔が妙に人懐っこい。
「ガレス・ドルングラードだ。土の家の倅よ。なあ、お前——身体、出来てるな?」
土の名家。四大名家の一つ、ドルングラード家の嫡男。なのに、気取りが欠片もない。
「カイルだ。中級家庭の出だよ」
「中級ぅ?」
ガレスは眉を上げると、いきなり右手を突き出してきた。
「一丁、腕相撲行こうぜ。近くにパートナーが居んだろ? 身体能力向上、乗ってんだろ?」
断る間もなかった。気づけば、俺たちは砂の上で手を組んでいた。
ガレスの握力は、岩のようだった。だが、セレナが訓練場の中にいる限り、俺の身体も普通じゃない。脳の奥で何かが緩み、筋が熱く張り詰める。
「——っ!」
互角だった。土の名家の嫡男と、中級家庭の俺が、砂の上で拮抗している。
勝負は、結局つかなかった。二人同時に手を離して、荒い息をついた。
「ぶはっ……お前、名家じゃねぇのに、この強さか」
ガレスが、腹の底から笑った。
「気に入った! 俺は強ぇ奴が好きでな。カイル、お前、今日から俺の友達だ」
勝手に決められた。けれど——不思議と、嫌な気はしなかった。家名も偽物も関係なく、ただ「強い」という一点だけで手を差し出してくる男が、俺には少し眩しかった。
空気が変わったのは、セレナの番が来た時だった。
標的に向けた模擬の魔法。動きの中で炎を放つ、基本の課題だ。俺は列の端で、所作に紛れてリベリオを握り、細い流れをアルカナ・コーデックスへ送る。
セレナの杖の先で、火が灯った。
以前より大きい。けれど——名家の令嬢が放つには、やはり弱い。芯の細い、揺れる炎だった。
その火を、誰よりも静かに見つめている眼があった。
レイナードだ。
腕を組み、微動だにせず、セレナの炎を観察している。冷たい青い眼が、炎の芯を、揺れ方を、消え際を——一つ残らず記憶に刻みつけるように動いていた。
背筋が、冷えた。
訓練が一区切りした時、レイナードは、まっすぐ俺のほうへ歩いてきた。足音に、無駄がない。
「カイル・ヴェルデン。君が、彼女のパートナーだな」
声は、論理そのものだった。感情の熱が、まるでない。
「……そうだけど」
「単刀直入に言う」
レイナードは、俺の眼を覗き込んだ。
「君のパートナーの魔法は、何かがおかしい」
時間が、止まった気がした。
「……何を、根拠に」
俺は、声が震えないように腹に力を込めた。
「根拠か」
レイナードは、眉ひとつ動かさなかった。
「火属性の炎には、放つ者の呼吸が宿る。息を吸い、止め、放つ——その瞬間に、炎が芯から立ち上がる。だが、彼女の火は違う。呼吸より、わずかに遅れて燃える。まるで——別の誰かから、火を受け取っているように」
心臓を、冷たい手で掴まれた気がした。
この男は、見ている。リベリオから送られたマナが、わずかな遅れを生むことを——そのコンマ一秒の歪みを、こいつは肉眼で捉えている。
「事実を述べているだけだ」
レイナードは、淡々と続けた。
「能力は、嘘をつかない。僕は、おかしいものを、おかしいと言う。それだけだ」
「ちょっと!」
割って入ってきたのは、イレーネだった。腰に手を当て、吊り気味の眼で、セレナを真っ直ぐ睨んでいる。
「さっきから聞いてれば。——ねえ、あんた」
矛先は、俺ではなく、セレナに向いた。
「あんたの火、なんか変よ。同じ火属性だから、分かるの。芯がないっていうか、借り物っていうか。——本当に、グランハルト家の魔女なわけ?」
セレナの顔から、表情が消えた。名家モードの仮面が、完璧に張り付く。けれど、俺には分かった。仮面の下で、彼女の爪が、掌に食い込んでいることが。
「……ご忠告、感謝しますわ」
震える声を、気高さで塗り固めて、セレナは言い返した。
「ですが、わたくしの火が本物かどうかは、戦場が決めること。口ではなく、結果で示します」
「はぁ? 言うじゃない」
イレーネが眉を吊り上げる。二人の視線が、火花のように弾けた。
「いいわ。いつか、同じ火で勝負してあげる。あんたの借り物の火が、あたしの本物に敵うかどうか——楽しみにしてなさい」
捨て台詞を残して、イレーネは踵を返した。感情で迫る敵。論理で追う敵。——首席のペアは、方向は違えど、二人とも、セレナの偽物の核心へ、真っ直ぐ歩み寄ってきていた。
その夜。
俺は窓辺で、冷たくなった茶を握っていた。昼間のレイナードの眼が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
偶然、廊下で見かけた時、あいつは、小さな手帳に何かを書き込んでいた。俺の気配に気づくと、さりげなくそれを閉じた。けれど、一瞬だけ見えた頁には——炎の形を真似た、細かな図と数字が並んでいた。
あいつは、記録を始めている。
セレナの火の揺れ方を。消え際を。呼吸との遅れを。一回一回、冷静に積み上げて——いつか、動かぬ証拠に変えるために。
「カイル」
背後から、声がした。セレナが、扉に背を預けて立っていた。掌の火傷は、もう塞がりかけている。
「あの首席……気づいてるわよね。わたしの火が、偽物だって」
俺は、嘘をつけなかった。
「……まだ、確証は掴んでない。けど、時間の問題かもしれない」
セレナは、しばらく黙っていた。それから、窓の外の月を見て、ぽつりと言った。
「……隠し通すしかない。バレたら、終わり。グランハルト家も、あんたとの秘密も、全部」
全部。その言葉の重さに、俺は茶を握る手に力を込めた。
首席の眼が、俺たちの背中に据えられている。逃げ場のない学院という箱庭の中で、偽物の魔女と偽物の剣士は、これから、仮面を被ったまま戦い続けなければならない。
「——一つずつだ」
俺は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「あいつが証拠を掴むより先に、俺たちが強くなればいい。偽物でも——本物より速く、前へ進めばいい」
セレナは、答えなかった。
けれど、月明かりの中で、彼女の横顔が、ほんの少しだけ、前を向いた気がした。
仮面の日々が、始まる。