第一章「仮面の日々」
第11話「火と火」
公開:2026.07.07 ・ 2,686文字
掌の擦過傷が、まだ疼いていた。
夜明けと共に森へ通い始めて、三日。オルドーの木剣に転がされ続けた掌は、豆が潰れ、皮が剥けている。借り物の強さの外側で、俺は初めて、自分の身体の脆さと向き合っていた。
だが今は——学院の訓練場。セレナが圏内にいる。脳の奥の枷は緩み、擦り切れた掌の痛みさえ、遠い。
上級課程の午後は、実戦形式の組手だ。エルザ教官が、組を読み上げていく。その番が来る前に——声が、割り込んできた。
「教官。希望を、言ってもいいですか」
イレーネだった。吊り気味の眼が、まっすぐセレナを捉えている。
「あたし、この人とやりたい。セレナ・グランハルト。——同じ火属性同士で、勝負しましょ」
訓練場の空気が、ぴんと張った。
エルザは、少しの間、二人を見比べた。それから、短く頷いた。
「いいだろう。模擬戦だ。型は問わん。ただし——相手を殺すな」
言葉に棘はない。だが、火属性同士の撃ち合いが、どれだけ危険か。教官は、分かっていて許した。
俺は、布で包んだリベリオの柄を、そっと握り直した。
セレナが、中央へ歩み出る。名家モードの仮面を被り、アルカナ・コーデックスを構えた。対するイレーネは、杖を軽く肩に担いで、挑発するように笑っている。
「先に言っとくけど」
イレーネが、舌なめずりでもしそうな顔で言った。
「あたし、手加減って言葉、嫌いなの」
合図と共に、炎が弾けた。
イレーネの火は——本物だった。芯から燃え立つ、密度のある赤。一撃ごとに空気が焼け、熱波が頬を打つ。手数も、火力も、段違いだった。
セレナは、受けに回るしかなかった。
俺は、列の端で、全神経をリベリオに注いでいた。
布越しに柄を握り、自然界のマナを吸い上げる。吸ったマナは、対となるアルカナ・コーデックスへ、自動で送られていく。それが、セレナの偽物の火の、唯一の燃料だ。
だが——抜けない。
この剣を、鞘から抜くわけにはいかない。布を解くわけにも。対の武器の存在は、誰にも知られてはならない秘密だ。だから俺にできるのは、握った柄から、細い流れを送り続けることだけ。
(もっとだ。もっと送れ——いや、送りすぎるな。不自然に見える)
綱渡りだった。抜けば、何倍ものマナを一気に注げる。けれど、それは許されない。抜けない制約が、俺たちの連携の上限を、固く縛っていた。
セレナの火が、細く揺れる。イレーネの豪炎が、それを呑み込もうと迫る。
「どうしたの! 受けてばっかりじゃない!」
イレーネの声が、勝ち誇る。
その通りだった。火力で押し合えば、セレナに勝ち目はない。芯のある本物の炎と、外から注がれる借り物の火。地力が、違いすぎる。
俺は、奥歯を噛んだ。ここが、俺たちの限界か。抜けない剣の、細い糸のような火が——
いや、と思い直した。
セレナは、まだ折れていない。
仮面の下で、彼女の眼は、恐ろしく冴えていた。出力で勝てないことを、誰よりも本人が分かっている。だから——頭を使っている。イレーネの癖、踏み込みの間合い、豪炎を放つ前の、わずかな溜め。その全部を、受けながら、測っていた。
次の瞬間、セレナは受けを捨てた。
消えかけの火を、一点に——針の先ほどの細さに絞り込む。面で受けず、線で貫く。名家の令嬢が放つ、豪快な炎とは真逆の一手だった。
イレーネの豪炎が、絞られた火の脇を空しく薙いだ、その刹那。
セレナの細い火線が、イレーネの杖を持つ手首を、掠めた。
「——っ、熱っ!」
イレーネが、思わず杖を取り落としかけた。豪炎が、一瞬、途切れる。
勝負あり——には、ならなかった。イレーネが咄嗟に飛び退き、体勢を立て直す。セレナも、そこで力を使い果たしていた。両者、肩で息をして、睨み合う。
「そこまで」
エルザの声が、響いた。「引き分けだ」
俺は、ようやく詰めていた息を吐いた。手首を、冷や汗が伝っている。細い糸のような火で、本物の豪炎と、引き分けた。——出力ではなく、頭で。それは、俺たちが今できる、精一杯の綱渡りだった。
訓練が解けても、イレーネはしばらく、自分の手首の赤い筋を見つめていた。それから、セレナのほうへ、つかつかと歩み寄る。
「……あんたの火」
吊り気味の眼が、複雑に揺れていた。
「やっぱり、変よ。芯がないのに、最後だけ、妙に鋭い。——気持ち悪いくらい」
セレナは、答えなかった。仮面を被ったまま、ただ、気高く顎を引いている。
「でも」
イレーネは、ふいに目を逸らした。
「……弱くは、なかった。今日のところは、引き分けにしといてあげる」
捨て台詞のようで、その声には、最初の棘がなかった。感情で迫る敵。けれど、根は——悪人では、ないのかもしれない。踵を返す背中を見送りながら、俺は少しだけ、そう思った。
だが——安心は、できなかった。
訓練場の隅。レイナードが、腕を組んで立っていた。冷たい青い眼が、勝敗ではなく、ただセレナの火の——最後の一点に絞られた、あの不自然な鋭さだけを、見つめていた。
手帳に、何かを書き込んでいる。炎の形を真似た、細かな図と数字を——また一つ。
感情で迫る敵は、引いた。だが、論理で追う敵は、今日もまた、冷静に、証拠を積み上げていた。
その夜。
寮の窓辺で、セレナは、まだ手首に湿布を巻いていた。俺が入れた薄い茶を、両手で包むように持っている。
「……ねえ」
珍しく、彼女のほうから口を開いた。仮面を外した、素の声だった。
「今日のあれ。最後の、一点に絞った火。——あんた、送るマナ、いつもより絞った?」
「いや」俺は首を振った。「いつも通りだ。細い流れを、切らさないようにしただけ」
「そう」
セレナは、少し黙った。それから、呟くように言った。
「変なの。……あの一瞬、杖の中で、火が、勝手に形を変えた気がした。わたしが命じるより、先に。まるで——この火が、自分でどう燃えるか、知ってるみたいに」
俺は、返す言葉を探して、見つけられなかった。
偽物の火。外から注がれる、借り物の炎。それが、術者の意思を追い越して、自ら鋭さを選んだ——なんてことが、あるだろうか。
(気のせい、だよな)
そう片付けようとして、ふと、昼のオルドーの言葉が蘇った。当たり前のものほど、何かがおかしいと、気づく瞬間がある。
「……セレナ」
「なによ」
「お前の火が、本物か偽物か。——それ、本当は、誰にも分かってないのかもしれない」
セレナは、訝しげに眉を寄せた。けれど、否定は、しなかった。
窓の外、夏めいた夜の風が、生ぬるく流れていく。イレーネの本物の火と、正面からぶつかって、引き分けた一日。その裏で、俺たちの偽物の火は、ほんの少しだけ——自分でも知らない、別の顔を覗かせ始めていた。