序章「偽物の魔女」
第2話「魔法のない魔女」
公開:2026.05.05 ・ 3,215文字
朝陽の射す訓練庭の隅で、セレナは杖を構えていた。
俺は中庭の回廊の柱に背を預け、遠目にその姿を見ていた。声をかけられる空気じゃなかった。
昨日と同じだ。一昨日と。儀式の翌朝から、もう三日になる。
セレナの構えはまっすぐだった。深く息を吸い込み、唱える。「火よ——」
何も、起きなかった。
杖の先端が震えるだけで、火花の一つも散らない。それでもセレナは姿勢を崩さない。もう一度、息を吸う。「火よ——燃えなさい——」
何も。
四度目、五度目。セレナの肩が小刻みに揺れている。額に汗の珠が浮かんでいる。早朝の冷たい風が中庭を抜けていくのに、彼女の背中だけが熱を帯びているように見えた。
俺は、何も言えない。
俺の身体は、相変わらず正常に動く。柱に手を添えれば指先まで力が漲り、目を凝らせば回廊の向こうの庭師の表情まではっきり見える。男性側の契約は完璧に成立している。だからこそ——セレナの不発が、より一層際立つ。
——俺のせいなのか。
頭の中で、その問いが何百回目かに転がる。考えても答えが出ない。出ないからこそ、考えるのを止められない。
ふと、セレナがこちらを向いた。
目が合った瞬間、その紫晶色の瞳に氷のような色が宿る。
「……何見てるの」
距離があるのに、セレナの声ははっきり聞こえた。男性側の身体能力強化のせいだ。皮肉なことに、相手の声を拾う耳まで良くなっている。
「いや、別に——」
「あっち行って」
短い拒絶。俺は唇を噛んで、踵を返した。
廊下の角で振り返ると、セレナはもう杖を構え直していた。震える手で、今度は目を閉じて。
——あいつは、止まらない。
それが何よりも、苦しかった。
夕刻、セレナは客寮の応接間に呼ばれていた。
俺はパートナーとして同席を求められ、扉の脇に立っていた。中央の卓には水晶の通信盤が据えられ、淡い光を放っている。遠話術式——名家ともなれば、大陸を跨いでも瞬時に通信が繋がる。
『——セレナ』
水晶から、低く重い声が響いた。
セレナの背筋が、ぴくりと跳ねた。
「……お父様」
『契約から三日。状況は』
「魔法は——まだ、発動しません」
短い沈黙。それが、最も重い。
『恥をさらすな』
水晶の光が一段だけ強くなった。
『グランハルトの娘が、魔力の器を発動できぬなど——前例がない。当主の名にかかわる。一週間以内に、何かしらの兆しを示せ。それが叶わぬ時は——本邸に戻し、別の措置を取る』
「……別の措置、とは」
セレナの声が、かすれていた。
『言わせるな』
水晶の光が消えた。通信は終わった。
セレナは動かなかった。卓に置かれた小さな手が、白くなるほど握りしめられている。横顔は完璧に整っていた。涙の一滴も、震えの一つも見せない。
——ああ、これがグランハルト家なのか。
俺は思わず目を伏せた。あの炎将の声の奥には、娘を案じる響きすら、確かに混じっていた。それでも、出てくる言葉は『恥をさらすな』だ。名家の重さというものが、初めて重力として伝わってきた。
セレナはふらりと立ち上がり、俺の脇を黙って通り抜けた。横顔をちらりと見たが、その目はもう、どこも見ていなかった。
部屋に戻った俺は、寝台に腰を下ろして頭を抱えた。
——別の措置。
意味は分からない。だが、いいものでないことだけは分かる。婚約の白紙、家からの追放——あるいは、もっと冷たい何か。
考えるな、と自分に言い聞かせた。考えても、俺には何もできない。何もできないなら、考える資格すらない。
その時だった。
——灰色の布で覆われた、二つの細長い箱。
唐突に、その光景が脳裏に蘇った。
祖父の書斎。窓辺の本棚の脇。背の高さほどの、剣の形。もう一つは、それより少し短い、杖のような形。
『まだ早い。だが、いつか、お前に渡さなければならないものがある』
七歳の俺の手を、祖父の節くれだった指が静かに押しのけた。あの目は、優しかった。優しかったが、奥にあったのは——畏れに近い、何か。
『これは、ヴェルデン家の——』
そこで言葉は途切れた。祖父はそれ以上、何も言わなかった。翌年の事故で、祖父はその続きを語らないまま死んだ。両親も、祖母も、一緒に消えた。
俺はそれから、あの箱のことを忘れていた。生きるのに必死で、思い出す余裕がなかった。
——なぜ今、思い出した。
寝台から立ち上がると、足元がふわりと軽い。身体能力強化が、いつもより冴えている気がした。いや、感覚が研ぎ澄まされたぶん、頭の方が追いつくように、忘れていた記憶を引きずり出してきたのかもしれない。
ヴェルデン家の屋敷跡は、町の郊外に残っているはずだ。事故で半壊し、誰も住まなくなった瓦礫の山。その地下に、祖父の書斎があった。書斎の床下には、隠された地下室があった——子供の頃、一度だけ覗き見た記憶がある。
あの箱は、きっと、そこにある。
何の役に立つかは、分からない。
何かが起きる保証なんて、どこにもない。
だが、何もしないでいるよりは——まだ。
俺は外套を引っ掴み、扉に手をかけた。
夜の中庭で、セレナはまだ杖を構えていた。
月明かりだけが、セレナの銀灰色の髪を青く濡らしている。俺の足音に気づいたのか、彼女が振り返った。涙の跡はもう乾いていた。代わりにあったのは、何かを諦めかけた、空っぽの目だ。
「……今度はなに」
「セレナ」
俺は息を整えた。喉の奥が、妙に乾いていた。
「一つだけ、試してみたいことがある」
「は?」
「俺と来てくれ」
セレナは杖を下ろさなかった。皮肉そうに口の端を歪める。
「今さら何を——あんたに何ができるのよ」
「分からない。何もできないかもしれない」
正直に答えた。下手な保証は、こいつには通じない。
「でも、俺の家には——ずっと、秘密にされてきたものがある」
セレナの目が、わずかに揺れた。
「秘密——?」
「祖父が死ぬ前に、いつかお前に渡すものがある、と言っていた。あの時の俺には意味が分からなかった。今もまだ、分からない。——だが、見に行く価値はあると思う」
風が中庭を抜けた。古い樫の枝が、低く鳴る。
セレナはしばらく、俺の顔を見ていた。月明かりに浮かぶその表情からは、もう何の感情も読み取れない。やがて——彼女は、ぽつりと言った。
「……期待は、しないわよ」
「ああ。期待しなくていい」
「期待しないって言ったら、嘘だわ」
セレナは杖を腰の鞘に収め、外套の襟を引き寄せた。震える指先を、隠すように。
「行くわよ。さっさと案内して」
——いつもの口調が、戻っていた。
俺は黙って頷き、先に歩き出した。
町外れまで来ると、月の光が瓦礫の山を青白く照らしていた。
崩れた壁。焼け焦げた梁。蔦の絡みついた門柱。八年前のあの日のまま、時間だけが葬列のように通り過ぎていった廃墟。
俺はその中央へと足を進めた。記憶の中の足取りで、子供の頃に遊んだ庭の位置を辿る。噴水のあった場所から、西に十歩。瓦礫の山に、片手をかけた。
身体能力強化のおかげで、岩のような瓦礫が軽い。両手で抱えて脇へどける。一つ。二つ。三つ——。
下から、石造りの階段が現れた。
地下へと続く、暗い口。ひんやりとした空気が、奈落の底から立ちのぼってくる。
セレナが息を呑む音が、すぐ後ろで聞こえた。
俺は外套の内側から携帯の油灯を取り出し、火打ち石で灯した。男性側の俺に魔法はない。今は、この素朴な火が頼りだ。
最初の一段に足を下ろすと、石の冷たさが靴底から伝わってきた。
「カイル」
名前で、呼ばれた。
振り返ると、セレナは月光の中に立ったまま、地下の闇を見つめていた。その横顔は、儀式の朝と同じくらい、青ざめていた。
「……怖いの?」
セレナは、即答した。
「怖いわよ」
そして、彼女は階段に足を踏み出した。
「でも、ここまで来たのよ。引き返すほうが、もっと怖い」
俺は何も言わず、灯りをかざして先導した。階段は思ったより長かった。地下へ、地下へ——祖父が、俺に渡すはずだった『何か』へ。
二つの細長い箱が、もうすぐ目の前に現れる。
予感だけが、ひどく、はっきりとあった。