序章「偽物の魔女」
第1話「契約の儀式」
公開:2026.04.30 ・ 2,406文字
足が、止まった。
石畳の坂道を登りきった先に、契約の大広間が見えた。白い尖塔が朝日を受けて光っている。
俺の名前はカイル・ヴェルデン。今日で十六歳。身寄りのない、中級家庭のどこにでもいる男だ。八歳の時の事故で家族を全員失ってから、遠縁の家を転々としてきた。
そんな俺が今日、パートナー契約を結ぶ。相手は——四大名家の筆頭、グランハルト家の令嬢だという。
何かの間違いだと思った。今でも思っている。
だが、契約の儀式に辞退はない。
大広間には、この地域の十六歳の男女が一堂に会していた。五十組はいるだろう。石造りの壁には歴代のパートナーたちの名が刻まれた銘板が並び、中央の床には契約の魔法陣が淡い光を帯びて浮かんでいる。
俺は自分のパートナーを探した。
壁際に、一人だけ誰とも話さずに立っている少女がいた。銀灰色の長い髪。背筋のまっすぐな、隙のない佇まい。同年代のはずなのに、纏っている空気が違う。凛として、冷たくて、近寄りがたい。
目が合った。紫がかった瞳が、俺を射抜く。
「あんたが、わたしのパートナー?」
挨拶もなければ名乗りもない。値踏みするような視線が、俺の安い正装を上から下まで通り過ぎた。
「……カイル・ヴェルデンです」
「ヴェルデン家。聞いたことないわね」
取りつく島もなかった。セレナ・グランハルト。名前だけは知っていたが、目の前に立つと胃が痛い。
「よろしく、とか言ったほうがいいのか?」
「別に。あんたが何を言おうと、契約は契約よ」
腕を組んだセレナの指先が、かすかに力を込めているのが見えた。こいつも緊張しているのか。名家の令嬢だろうと、十六歳は十六歳だ。
司祭が声を張り上げた。「これより、契約の儀式を執り行う」
俺たちは魔法陣の前に並んだ。セレナの横顔は完璧に整っていたが、よく見ると唇がわずかに震えていた。
詠唱が始まり、足元の魔法陣が輝きを増していく。金色の光が渦を巻き、俺たちを包み込んだ。
温かい。体の内側が満たされていく不思議な感覚。光がひときわ強くなった瞬間——体の中で、何かが弾けた。
全身に電流が走り、それが引いた後に残ったのは信じられないほどの軽さだった。足が軽い。目が冴え渡り、広間の隅の人間の表情まではっきり見える。指先まで力が漲っている。これが、契約で男に与えられる身体能力の向上か。昨日までの自分の体が、紙でできていたみたいだ。
「——次に、魔女の契約を確認する」
司祭の声に我に返った。隣のセレナは両手を前に差し出し、目を閉じて集中していた。グランハルト家の令嬢なら、火の魔法が——。
何も起きなかった。
セレナの指先から、炎はおろか火花ひとつ散らない。
もう一度、力を込める。指先が白くなるほど。三度目。四度目——。
周囲では魔法の光が次々と花開いていた。水の球。風の渦。歓喜と驚嘆が広間を満たす中で、俺たちの周りだけが沈黙していた。
ざわめきが広がる。「グランハルト家の……」「魔法が出ないのか?」「嘘だろ……あの名家の……」
囁きが、波紋のように広がっていく。好奇の目。哀れみ。そして——嘲笑。
セレナの顔から血の気が引いている。唇を白くなるほど噛みしめ、それでもまた両手を差し出す。
何も、起きなかった。
広間の奥で、セレナの父——炎将アルベルト・グランハルトが、険しい顔でこちらを見つめていた。
セレナの手が、だらりと下がった。俺は隣に立っているだけで、何もできなかった。
中庭の外れ、古い樫の木の陰にセレナはいた。幹にもたれて地面を見つめている。さっきの凛とした佇まいは消え失せ、肩を落としたその姿はひどく小さく見えた。
「セレナ」
声をかけた瞬間、セレナの頭が跳ね上がった。目が赤い。頬に涙の筋が光っている。だが次の瞬間、その目に怒りが燃えた。
胸ぐらを掴まれた。小さな手が俺の襟を引き裂かんばかりに握りしめている。
「あんたのせいでしょ! あんたが何かしたんでしょ!」
「俺は——」
「わたしの魔法が出ないのは、あんたのせいよ! パートナーが、あんたなんかだから——!」
声が震えている。怒りじゃない。恐怖だ。名家の令嬢として積み上げてきた全てが崩れ落ちた恐怖を、怒りに変えて俺にぶつけている。
こいつは俺を責めたいんじゃない。ただ、他にどうしていいか分からないんだ。
俺は、その手を振り払わなかった。
「……悪い」
それしか言えなかった。
セレナの手からゆっくりと力が抜けた。俯いた顔に涙が一筋落ちて、それを拭おうとした手が途中で拳になった。
「……もういい。一人にして」
背を向けた肩が、小刻みに揺れていた。
俺は何も言えないまま、その場を離れた。中庭では、まだ契約を祝う歓声が響いていた。他人の幸福が、ひどく遠くに聞こえた。
寮の部屋に戻っても、眠れなかった。
俺のせいなのか。俺の身体能力は確かに上がっている。男性側の契約は正常だ。なのにセレナの魔法だけが出ない。
名家の恥。後継者失格。魔法のない魔女。セレナがあのまま魔法を使えなければ、グランハルト家にとって——いや、セレナ自身にとって、取り返しのつかないことになる。
あの泣き顔が、瞼の裏に焼き付いて消えない。俺の胸ぐらを掴んだ小さな手の、あの震え。
寝返りを打った時、ふと古い記憶が蘇った。
祖父の書斎。壁際に立てかけられた、灰色の布で覆われた二つの細長い箱。子供の俺が手を伸ばそうとして、祖父に止められた。
『まだ早い。だが——いつか、お前に渡さなければならないものがある』
あれは七歳の時だ。翌年の事故で祖父は死んだ。両親も、祖母も。あの言葉の続きを、俺は聞けなかった。
だが——ヴェルデン家の跡地は残っているはずだ。事故で半壊した家屋の瓦礫。その下に、祖父が大切なものをしまっていた地下室がある。
目を開けた。天井の染みが、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。
何ができるか分からない。何の役に立つかも分からない。だが、このまま何もしないでいることだけは——できなかった。