NOVLUM

偽物の魔女になれなかった君と、反逆の剣

序章「偽物の魔女」

第3話「反逆の剣」

公開:2026.05.12 ・ 2,862文字

 階段は、思っていたよりずっと長かった。

 油灯の炎が、湿った石壁を黄ばんだ色に染める。十段、二十段——一段下りるごとに、空気が冷たく、重くなっていく。

 後ろから、セレナの息遣いが伝わってきた。皮肉の一つも、いつもの「あんたねぇ」も、今夜はない。男性側の身体能力強化のせいで、俺の耳はその沈黙の震えまで拾ってしまう。

 最下層の踊り場に、靴底が着いた。

 正面に、古い鉄の扉。

 扉の中央に、半透明の魔法陣まほうじんが薄く浮かんでいた。淡い藍色の光が、静かに呼吸している。

 ——封印だ。たぶん、祖父がかけた。

 なぜ男の祖父が魔法を扱えたのか——そんな疑問は、後でいい。今は、開けるか、引き返すか、それだけだ。

 「……魔法陣ね」セレナが、ぽつりと言った。「秘術ひじゅつに近いわ。素人が触れたら、確実にはじき返される」

 「ああ」

 俺は息を吸い、扉に手を伸ばした。

 指先が、藍色の光に触れた——、

 ぱり、と乾いた音。

 光は、霧のように、散った。

 しばらく、動けなかった。

 「……開いた」

 背後でセレナの声が震えていた。「カイル。今のは、何」

 「分からない」

 正直に答えた。それ以外、答えようがなかった。封印は、たしかに俺を識別したように消えた。祖父が、扉の向こうから「これは身内だ」と頷いたかのように——。

 扉が、軋みながら、内側へ動いた。


 奥は、思っていたよりも広かった。

 壁に並ぶ、古い書架。中央の、黒い石の台座。その上に、灰色の布で覆われた、二つの細長いもの。

 記憶の中のとおりだ。

 俺は油灯を石壁の窪みに置き、両手を伸ばした。一つ目。剣の形をした、布の塊。指先で布を引くと、ふ、と乾いた埃が宙に舞った。

 姿を現したのは、漆黒の鞘に納められた一振りの剣。柄に、見たことのない紋様が刻まれている。古いはずなのに、不思議と汚れがない。

 もう一つの布を、めくる。

 こちらは——杖だった。

 俺の腰ほどの長さの、銀色の杖。先端に拳ほどの硬玉こうぎょくが嵌め込まれ、油灯の光をうちに含んで、ほのかに脈を打っている。

 セレナが、息を呑む音がした。

 「これ——」

 「祖父は、『対の武器』と呼んでいた」

 俺は記憶を、慎重に引き出す。七歳の自分が聞いた、断片的な言葉。

 「剣のほうは——リベリオLiberio。自然のマナを吸い込む剣だ。吸い込んだマナは、対になる杖——{アルカナ・コーデックス|Arcana Codex}に、自動で送られる」

 セレナの瞳が、揺れた。

 「杖を持つ者は、そのマナを使って——魔法を、使えるはずだ」

 言葉の最後を、俺は飲み込みかけた。

 「『はず』って何よ」

 「祖父はそれしか言わなかった。実際に試した者を、俺は知らない」

 セレナは、杖を見つめたまま動かない。

 唇が、震えながら動いた。

 「……つまり、わたしの素質ではなく、この杖が、魔法を発動する、と」

 「そう聞こえる」

 「それは——」

 言葉を、彼女は最後まで言わなかった。


 セレナの肩が、ふと、揺れた。

 俺は、彼女の横顔から目を逸らさなかった。

 名家の令嬢として積み上げてきた一切が、今、目の前で天秤にかけられているのが分かった。「魔女としての才能で勝ち取った力」と、「ヴェルデン家の遺物に頼って借りる力」と。それは——彼女にとって、たぶん、刃を喉に当てるのとそう変わらない。

 「……これは、本物じゃない」

 セレナが、つぶやいた。

 「ああ。本物じゃないかもな」

 俺は素直に頷いた。

 セレナの目が、こちらを向く。怒っているのか、軽蔑しているのか、分からない目だった。

 「あんた、それでいいの」

 「いいかどうかは、お前が決めることだ」

 「——わたしに、決めろと?」

 「ああ」

 俺は、台座に立てかけられたリベリオを取った。鞘ごと、両手で持ち上げる。思ったよりずっと重い。だが、握れた。手が、剣を拒まない。

 「俺は、剣を振る。お前が偽物だろうが何だろうが——お前が魔法を使えるようになるなら、俺はこの剣を振る。それだけは決めた」

 セレナの瞳から、ふ、と力が抜けた。

 彼女は、長いこと、何も言わなかった。

 やがて、白い指先が、台座の杖に伸びる。

 アルカナ・コーデックスの硬玉が、セレナの指に触れた瞬間——、

 彼女の肩が、わずかに跳ねた。

 「……温かい」

 セレナの声は、震えていた。今まで聞いたどんな彼女の声よりも、無防備な震えだった。

 その時、俺の手のリベリオが、鞘の中で、ことり、と微かに揺れた。同時に、セレナの杖の硬玉が、応えるように一瞬だけ淡く明滅した。

 俺たちは、目を見合わせた。

 「……今、見たわよね」

 「ああ」

 言葉が、続かなかった。


 地下を出ると、月はずいぶん高くなっていた。

 俺たちは武器を外套の下に隠し、町に戻った。リベリオは俺の腰の後ろに。アルカナ・コーデックスはセレナの長外套の内側に。誰にも見られてはならない——それだけは、祖父の遺した言葉から、はっきりしていた。

 町の入り口の四つ辻まで来たとき、向こうから、二つの影が歩いてきた。

 「——お、おう?」

 人懐っこい声が、夜の空気に響いた。

 茶髪の短髪。日焼けした顔。同じ十六歳の男だ。隣には、長い黒髪の少女。穏やかな目元の、落ち着いた佇まい。

 契約の儀式の朝、たしか壁際にいた組だ。

 「お前ら、こんな時間に何やってんだ?」

 彼は片手を上げて、こっちに駆け寄ってきた。「眠れねぇのは俺たちだけかと思ったぜ。あ、リオン。リオン・クレストール。こっちはミラ。一応、俺のパートナー」

 「一応って何よ」

 ミラが横から、静かに突っ込んだ。声に角はなかった。

 「カイル・ヴェルデン」と俺。

 「セレナ・グランハルト」

 セレナがそう続けたとき、リオンの顔が、ぴたりと固まった。

 「……グランハルト? あの、グランハルト?」

 「……ええ」

 「うわ、まじか。あー、その。なんていうか——」

 リオンが頭をかく。儀式での魔法不発の件は、もうこの地域中に広まっているはずだ。彼は、口にしようとして、しなかった。代わりに、にっと笑った。

 「眠れねぇ夜は、長ぇからな。一緒に夜風でも吸うか?」

 セレナは、ふと、目を逸らした。

 「……お気遣い、なく」

 だがその口調は、いつもの刺々しさより、半分くらい柔らかかった。

 俺はそれを、横目に見ていた。三日ぶりに、こいつの肩の力が、ほんの少しだけ抜けた瞬間だ。

 「またな、カイル!」

 リオンが大きく手を振って、ミラと連れ立って去っていく。ミラが振り向きざま、セレナに小さく頭を下げた。深い意味はなさそうな、ただ礼儀正しい、淡い目礼。

 セレナは、その目礼を、長いこと見送っていた。


 翌朝。

 町外れの、人気のない野原まで来た。

 朝露を含んだ草が、足元できしむ。空は、まだ薄藍色だ。

 俺はリベリオを抜いた。

 鞘から滑り出た刃は、漆黒に近い深い灰色だった。朝の薄光を吸い込むように、光らない剣。

 試しに、空を斬る。

 ——その瞬間。

 周囲の空気が、ぐぃ、と剣に引き寄せられる感覚があった。風じゃない。もっと、目に見えない何か。それが俺の周りから、刃の奥へ、吸い込まれていく。

 背中で、セレナの息が、止まる音がした。

 彼女がアルカナ・コーデックスを構えていた。先端の硬玉が、ぼう、と光を強くしている。

 「……来てる」

 セレナの声が、かすれていた。

 「何かが、わたしの中に——来てる」