第二章「梅雨の打ち合わせ」
第13話「三日目の頁」
公開:2026.07.22 ・ 3,200文字
三日目の頁
戻り梅雨の細い雨が、神保町の路地に、朝から糸のように落ちていた。
槙は静秋社での午前の打ち合わせを終え、白山通りを南に折れて、いつもの珈琲店の重い木の扉を、両手で押した。カウンター奥のマスターに軽く会釈して、窓際の二人掛けの席を、目で指した。マスターは頷いて、二人分の湯呑みを、先に温めておいてくれた。
葉山涼太は、約束の五分前に、鞄を斜めに掛けて入ってきた。傘の水滴を、扉の外で、二度、丁寧に払ってから、席のほうへ歩いてきた。上着の袖口に、小さな朱の点が、一つだけ残っていた。装幀のサンプルを触ってきた指の色だった。
「お待たせしました」
「いえ。私も、いま、着いたところです」
葉山は椅子に腰を下ろし、鞄から、紺色の紙挟みを出した。紙挟みの縁の折れ癖は、二稿目までと同じ位置についていた。作家が原稿を通勤鞄に入れて持ち歩くときの、指の位置が、そのまま角に痕を残していた。
「三日目、と、件名で書いてしまいましたが、正確には、書き直し三稿目、です」
「はい。土曜のメール、拝見しました」
「本文が空欄だったの、驚かせましたか」
「いいえ」と槙は言った。「本文の空欄も、含めて、いつも通り、頂きました」
葉山は、ふ、と息を抜くように笑い、紙挟みを、テーブルの中央に、静かに置いた。
「読んでみて、ください」
槙は珈琲を一口だけ含み、紙挟みを開いた。頁の左上に、赤字で「三稿・四篇のうち二篇分」とだけあった。頁を繰る指の腹に、湿った紙の重さが乗った。乾ききらない印刷の匂いが、湯気の匂いのうえに、細く重なった。
一篇目は、二稿とほぼ同じ骨だった。冒頭の一行を、葉山は動詞をひとつだけ入れ替えていた。「歩いていた」を「歩きつづけていた」に。動詞のうしろに、時間の厚みが半段だけ加わっていた。
二篇目に、指が移った。二篇目は、二稿からの改稿が、大きかった。舞台は大学の頃の下宿の窓際で、主人公の男が、別れる少し前の恋人と、洗い物を並べて片付ける場面から始まっていた。頁を繰る槙の指が、四頁目の中ほどで、ひと度だけ、止まった。
止まった行に、こう書かれていた。
「――だから、遠さのほうを、はじめに引き受けたほうがいい、と、俺は思っている」
槙は、その一行のうえに、視線を、ふた呼吸ぶん置いた。
大学の四年の夏、共通の友人の下宿の、灯りをひとつだけ点したキッチンで、周が、シンクに立ったまま、同じ形の一文を、槙のほうを見ないままで置いたことがあった。動詞の末尾は違った。周は「思う」と言った。葉山の主人公は「思っている」と書いていた。半段の時間の厚みは、動詞の側のほうにあった。
槙は頁を、静かに前へ戻した。二篇目の一頁目の欄外に、鉛筆で、細い斜線を、ひとつだけ引いた。斜線の意味は、「後で戻る」だった。編集者としての印だった。
葉山は、湯呑みを両手で包んだまま、槙の指の動きだけを見ていた。何を訊くでもなく、答えを、待つでもなかった。
「二篇目、良くなりました」と槙は言った。
「ほんとうですか」
「はい。冒頭の生活の音の入れ方が、二稿より、体の中に落ちてきます」
「そこ、直したところです」
「気づきました」
葉山は、また、ふ、と息を抜いた。息の抜き方が、二稿のときより、ひと段、軽かった。作家が自分の直しを、編集者の指の動きだけで受け取れた瞬間の、あの、軽さだった。
槙は、二篇目を最後まで読み、頁を閉じ、紙挟みの上を、指の腹で一度だけ撫でた。
「講評は、次回、書面で、二篇分まとめて、お戻しします」
「はい。お願いします」
そこで葉山は、窓の外の細い雨のほうへ、視線をひと度だけ振った。振ったあとで、視線を戻さないままで、こう置いた。
「二篇目の、あの一行の男」
槙は、湯呑みに、指を戻した。
「はい」
「モデル、いらっしゃいますか」
「作家に問い返すのは、編集者の作法では、ないですが」
「編集者としてではなく、聞いています」
葉山の声は、いつもの半段、低かった。低さの中に、いつもの躊躇いの縁が、消えていた。
槙は、湯呑みの縁を、指の腹で、ゆっくり一周した。回した指の温度が、いっとき、指先の付け根まで、細く戻った。首筋の左側の付け根に、朝から薄く感じていた温度の残りが、湯気の縁で、ひと段だけ、輪郭を強めた。強めた輪郭を、湯呑みの陰に、隠さないままにした。
「モデルが、いるかどうかを、私は、お答えしないほうが、原稿には、いいと思います」
「わかりました」
「ただ」
「はい」
「二篇目の、あの一行の動詞を、“思っている”、で残す判断は、私は、支持します」
葉山は、頷いた。頷きの角度は、応接の会釈より、半段、深かった。
「三篇目の”見送り”の場面が、まだ、書けていないんです」
「見送り、と、いうのは」
「別れる側が、別れる相手を、送り出す場面です。二篇目までの主人公の男が、三篇目で、ようやく、送り出す側にまわる。その、最後の三行だけ、僕、まだ、書けていない」
「書けていないもの、を、書きにくいものとして、聞いておきます」
「一つだけ、お願いを、してもいいですか」
「はい」
葉山は、テーブルのうえに、鉛筆を、一本、寝かせて置いた。芯の先は、こちらの側に向いていた。
「原稿の外で、いつか、“見送り”のシーンを、僕にひとつ、見せてくださいませんか」
槙は、鉛筆の芯の先の、細い黒を、視野の下に置いたまま、返事の位置を、しばらく、空けた。
「いつか、と、いうのは」
「書店の日、より、あとで、けっこうです」
槙は、湯呑みの熱を、指の付け根に、もう一度、戻した。書店の日、という五文字を、他人の口から聞くのは、初めてだった。予定表の隅に、鉛筆で書きつけた四文字と一句読点の、そのすぐ隣に、他人の指が、今日、ひとつだけ、そっと触れた気配があった。
「その日、その時、私が、送り出す側に立てているかどうか、私にも、いま、わかりません」
「はい」
「立てていなかった場合、“見送り”の場面は、たぶん、原稿の中の、あなたの三篇目のほうに、私が、預けます」
「預けていただければ、僕は、書きます」
葉山は、鉛筆を、テーブルの上から、鞄の脇に、静かに戻した。
窓の外で、細い雨が、いっとき、糸を一本だけ増やした。神保町の路地の石畳が、雨の色を、指のひと節ぶん、深めていた。
鞄のなかで、槙のスマートフォンが、短く震えた。差出人は、栗原だった。件名だけが、目に入った。「群青書林様、初校日程、変更の打診」。
槙は、画面を、伏せて置いた。伏せた画面のうえに、湯呑みの底の湿った円が、細い輪郭で、いっとき残った。伏せた画面の下で、初校の日程は、こちらが返事を書くまで、動かない位置にあった。動かない位置にあるあいだ、槙は、二篇目の欄外に引いた細い斜線のほうへ、もう一度、指を戻したかった。
「もう一杯、いかがですか」と葉山が言った。
「いただきます」
マスターが、湯呑みを下げに来た。下げた湯呑みの底に残った、細い茶の輪の位置が、テーブルのうえに、しばらく、乾かないままで残った。
戻り梅雨の一日は、路地の石畳を、まだ、乾かせないままで、細く続いていた。窓の外の雨のうえに、槙は、“見送り”、という三文字を、はじめて、他人から預けられた重さのまま、指の付け根で、そっと受けていた。