第二章「梅雨の打ち合わせ」
第14話「初校の位置」
公開:2026.07.29 ・ 3,499文字
初校の位置
戻り梅雨の湿りが、朝から神保町の路地の敷石に、指の腹一枚ぶんだけ、張りついていた。
槙は九時前に静秋社の裏口を上がり、三階の小さな会議室の扉を、両手で押した。窓の外の空は、青と灰のあいだで、まだどちらにも寄り切れずにいた。会議机のうえに、栗原はすでに書類の束を並べ終えていた。書類の背表紙の折り目は、いつもの位置に、いつもの角度で寝ていた。
「おはようございます。少し早く来てしまいまして」
「いえ、こちらこそ、朝から、お呼び立てして」
栗原は湯呑みを二つ、給湯室から運んできた。湯呑みの底の茶の輪は、まだ薄かった。二人は角を挟んで席についた。栗原はいつも通り、書類の束を、槙の側に半歩だけ寄せて置いた。書類の頭には、群青書林の栞印の入った送付状が、一枚、乗っていた。
「例の、初校日程の件、です」
「拝見します」
槙は送付状に指をひとつ置き、順序を確認した。短編集『三十二歳の声』の初校のスケジュールは、六月末の合同打ち合わせで、九月最初の週、と、決めてあった。送付状は、そこから一週間、前倒しの打診だった。八月最終週の水曜に、装幀初校と、本文初校を、同じ日に上げたい、と、そう書いてあった。
「前倒し、ですか」
「はい。しかも、打診の、起点が、少し、意外です」
「営業側から、ですか」
「装幀室から、です」
栗原は送付状の下段の担当欄を、指の先で示した。担当者の氏名の欄に、装幀室のフリーランスの署名として、「工藤凛子」の五文字が、印字ではなく、細い手書きで、入っていた。筆致は、まっすぐで、力を入れすぎていなかった。
槙は湯呑みを、指の付け根で受けた。首筋の左側の付け根の温度が、湯気の縁で、ひと段だけ、輪郭を強めた。強めた輪郭を、湯呑みの陰に隠さないままにした。
「装幀のほうの、事情、ですか」
「そう、みたいです」と栗原は言った。「工藤さん、九月の第一週から、地方の版元さんの企画に、二週間ほど、入られるそうで」
「なるほど」
「群青書林の副編集長、あ、その、工藤周さん、からは、こちらへ、直接電話は、ありません。装幀室のほうから、書面だけで、届いています」
栗原は「工藤周さん」の八文字を、いつもより半段だけ、事務の温度で置いた。置いたあとで、目線を送付状のほうへ、まっすぐ戻した。栗原は、木曜のつかさ亭のことも、金曜の川沿いのことも、なにも知らない。知らない人の事務の温度が、いま、机のうえに、まっすぐ届いていた。届いた温度は、槙の側の、指の付け根の熱の輪郭を、いっとき、隠してくれる位置にあった。
「本文の初校は、こちら側で、動かせる範囲、ですか」
「三名分の入稿ゲラは、来週火曜、印刷所から届きます。八月最終週の水曜には、間に合います。ただ、講評のお戻しが、いつもより二日、詰まります」
「二日、ですか」
「はい。私は、動けます。あとは、槙さんのご判断次第です」
栗原は書類の束のうえに、両手を、静かに揃えて置いた。揃えた指の背に、朝の光が、白く、まっすぐ落ちた。
槙は、ページを二枚だけ繰った。二枚目の裏に、装幀室の側の作業工程表が、細い罫線で組まれていた。八月最終週の水曜、と、印字された欄の下に、凛子の手書きで、細く、こう書き添えられていた。
「本文初校と同日に、装幀初校を並べていただければ、書き手の指の温度が、いちばん揃うように、思います」
「書き手の指の温度」。
その八文字の隣に、槙は、視線を、ふた呼吸ぶん、置いた。装幀の職人の言葉ではあった。ただ、その言葉の運びは、金曜、周が装幀の書面を、槙のほうを見ないで受け取ったときの、あの抑制の癖と、半段だけ、近い場所にあった。宛名の欄には、静秋社 御中、とだけ、あった。
「栗原さん」
「はい」
「装幀室への返信は、私が、書面で、直接、お戻ししても、よろしいですか」
栗原は、いっとき、顔を上げた。上げた目のなかに、事務の温度以上の、なにかを、置こうとはしなかった。置かないままで、頷いた。
「もちろんです。担当編集の判断です」
「ありがとうございます」
「群青書林の副編集長のほうへは、こちらから、事務のご一報を、入れておきます。装幀と本文の同日運用について、静秋社側は、了解、と」
「はい。お願いいたします」
槙は送付状をひと枚だけ抜き出し、鞄の内ポケットの、便箋差しのあるほうに収めた。収めた紙の縁が、便箋差しの布地に、細く触れた。触れた位置は、二週間前の土曜、便箋一通ぶん軽くしていた、あの位置と、同じ場所だった。
会議室を出るとき、栗原は扉のうえで、いっとき立ち止まった。振り返らないままで、頷きの角度だけを、階段の下り口のあいだに、細く置いていった。
昼過ぎ、槙は月島の部屋の机で、白い便箋を、また一枚、引き出しから出した。机のうえには、朝の会議室から持ち帰った送付状が、伏せて置いてあった。伏せた紙のうえに、朝からの戻り梅雨の湿りが、部屋の空気を、まだ半段ぶん、締めていた。
宛名を、書いた。
「群青書林 装幀室 気付 工藤凛子さま」
書きながら、宛名の縦の払いを、朝、栗原が湯呑みを置いた指の、あの、まっすぐな角度に、揃えた。二週間前の土曜、同じ宛名を、便箋の裏面に鉛筆で下書きしたときと、指の位置は、動いていなかった。動いていない位置から、今日は、周を経由しないで、まっすぐ、凛子の名前に、届く便箋を、書こうとしていた。
本文の一行目を、書いた。
「初校日程のご調整の件、担当編集の高橋より、直接、お返事差し上げます」
事務の一行だった。「直接」の三文字だけを、朝の送付状の宛名の空白の位置に、揃えた。宛名の空白のなかに、事務ではない一段の温度は、置かないままにした。
続けて、日程の受諾と、講評の返しの前倒しについて、実務の三行を入れた。三段落目に、事務の枠から半歩だけ出た文を書いた。
「装幀と本文を、同日で並べていただくご提案、当方も、書き手の指の温度が揃う位置として、賛同いたします。判断は、二週間前に便箋でお伝えした通り、装幀そのものに下ろしています。今回のご調整も、その延長として、お受けいたします」
書いてから、「延長として」の四文字に、青いペンで、細い線を一本だけ引いた。線は、二週間前の便箋の「編集者としての眼で」の一節から、まっすぐ、月島の机のうえまで、延びてきていた。
署名を、「静秋社 業務委託/担当編集 高橋槙」の一行で、閉じた。
便箋を、封筒に入れ、封をした。ペーパーナイフを、便箋差しの脇に、静かに戻した。
そこで、机のうえの、スマートフォンを、初めて、表に返した。届いていたメールは、二通あった。一通目は、栗原からの、静秋社側の了解通知の写しだった。二通目は、群青書林の副編集長、工藤周からの、事務の三行だった。
「高橋さま 初校日程、装幀室と、静秋社様のあいだで、直接、お進めください。私は、書面で、経緯だけ、拝受いたします。 工藤」
「私は、書面で、経緯だけ、拝受いたします」——その一行を、槙は、ふた呼吸ぶん、視野の下に置いた。
その一行のなかで、周は、初めて、自分を「経由しない」場所に、自分の位置を、事務の言葉で置いていた。金曜の川沿いで彼が槙の側に置いていった時間の預けものが、今日は、仕事の宛先の位置に、預け直されていた。預け直した動詞のなかに、彼のいつもの抑制の癖は、まだ、細く折り込まれていた。
槙は、返信を、開かなかった。開かないままで、既読の印だけを、画面の右上に、細く灯した。
椅子の背に、後ろ倒しに寄りかかった。天井の目地の正方形が、視野の縁に三つ、並んでいた。真ん中の一つのうえに、朝の会議室で栗原が「工藤周さん」の八文字を置いたときの、あの事務の温度を、いっとき、置いた。
宛先の順序は、今日、凛子、周、ではなかった。凛子だけの、一列だった。
そのことについて、自分に、もう一度、問うた。問うたあとで、答えは、置かなかった。
夕方、封筒を胸ポケットに入れ、月島の裏通りの、緑のポストの前に立った。投函口の縁に、指を軽く触れた。二週間前と、指の位置は動いていなかった。動いていない位置から、今日は、凛子ひとりの宛名が、封筒の底に、まっすぐ落ちていった。
戻り道、路地の角の街灯が、時季より、さらに半段、早く灯った。ひとつだけの白い光の下で、槙は、上着の胸ポケットの空いた位置に、指先をいっとき当てた。空いた位置は、二週間前より、細く、湿っていた。
鞄のなかで、スマートフォンが、短く震えた。差出人の欄には、いつもの葉山でも、栗原でも、周でもない名前が、入っていた。
「工藤凛子」
件名だけが、目に入った。
「初校日、静秋社様、直接、伺ってもよろしいでしょうか」