NOVLUM

もう一度、八月

第一章「四月の再会」

第12話「打ち合わせの、あと」

公開:2026.07.15 ・ 3,445文字

打ち合わせの、あと

七月二週目の金曜、朝の空は、雨のあいまの乾いた青をしていた。

槙は水道橋の駅で降り、白山通りの側の歩道を、少しだけ遠回りに歩いた。神田川の橋を、あえて一度だけ渡ってから、群青書林のビルのほうへ折り返した。歩幅は、いつもよりわずかに広かった。広げていることに、途中で気づいた。気づいたぶんだけ、次の一歩を、意識で戻した。

群青書林の受付で名前を告げ、応接室へ案内された。木の枠のガラス戸を、案内の女性が半分だけ開けて、また閉めた。閉じたガラスの向こうで、周は既に立ち上がっていた。

「お待たせしました」

「いえ。私も、今日は、少し早く着きました」

周は今日は、上着の襟の色を、いつもの黒ではなく、藍にひとつ寄せた濃紺で来ていた。仕事の色の中に、半段だけ落ち着いた温度を、置いてきていた。槙はコートを椅子の背に掛け、装幀サンプルを収めた薄い封筒を、テーブルのうえに、静かに置いた。

十三時五分、群青書林側の編集長と、静秋社の栗原が、続けて応接に入ってきた。四人でテーブルを囲み、周が資料を配った。

「では、はじめさせていただきます」

合同打ち合わせは、事務の顔で進んだ。

短編集『三十二歳の声』の刊行日程、装幀の正式発注、初校の戻し、営業側の展開計画。栗原は槙の隣で、ノートに細かい書き込みを続けた。編集長は要所で頷きながら、決定事項に、都度、承知の一言を差し込んだ。

装幀の項では、槙は書面と同じ順序で、判断の理由だけを、簡潔に述べた。

「本命として、工藤凛子様のご候補で進めていただければと思います。書き手三名の輪郭を揃えて引き上げる方向より、書き終えた読者の手元で長く残る方向を、本作の短編集は、取ったほうがよいと判断いたしました」

「承知しました」と、群青書林の編集長は言った。「装幀室のほうへは、こちらから、正式に発注のご連絡を通します」

「よろしくお願いいたします」

言葉を交わすあいだ、周は槙のほうを見なかった。書面のほうを見ていた。書面のうえで、事務が事務のまま進むように、彼は自分の視線を、意識で置いていた。置いていることが、槙には判った。判っていることを、槙も、事務の顔のなかにしまった。

一時間ほどで、議題は最後まで片付いた。編集長が席を立ち、栗原も鞄を閉じた。周は資料を揃え直しながら、槙のほうに、はじめて短く視線を送った。

「高橋さん」

「はい」

「先週、お預けした件、憶えていてくださっていますか」

栗原が、扉のほうへ会釈をした。編集長は既に、応接の外に出ていた。槙は、鞄の口を閉じる指を、いっとき止めた。

「憶えています」

「もしよろしければ、少しだけ、外に出ませんか。近くまで」

「近く、と、いうのは」

「川沿いに、二十分ほど」

槙は、鞄の口を、静かに閉じた。

「ご一緒します」


外に出ると、正午過ぎの空気は、朝より半段、乾きが上がっていた。二人は、群青書林のビルを背にして、白山通りを渡り、神田川沿いの遊歩道のほうへ折れた。

川面は、七月の光を、鈍く反射していた。反射する光は、水そのものの色というより、水を包む空気の色のほうに近かった。槙は左側を歩き、周は川に近い右側を歩いた。歩幅は、応接に入る前の朝より、二人とも、半歩ぶんだけ狭かった。

「今日は、進行、ありがとうございました」と、周が先に言った。

「こちらこそ」

「装幀の件、書面での判断、いただいた通り、こちらでも、まっすぐ受け止めました」

「ご丁寧に、ありがとうございます」

「凛子には、先週の土曜に、便箋を頂きました、と、伝えました」

槙は、川面のほうを見ていた顔を、動かさなかった。動かさないままで、頷きの角度だけ、半段、下げた。

「そうですか」

「凛子は、便箋を頂いたこと、槙さんの署名の位置、判断の順序、それら全部を、じぶんの仕事の側の礼として、受け取っていました。ありがとう、と、伝えるように、と、俺、頼まれました」

「凛子さんに、こちらこそ、ありがとうございました、と、お伝えください」

「伝えます」

橋を、ひとつ越えた。橋の上で、風がひとすじだけ、川の下流のほうへ抜けた。槙の髪の毛先が、いっとき、耳の裏を掠めた。掠めた温度を、槙は、湯呑みの陰に隠さないまま、次の一歩に、そのまま乗せた。

「装幀の話の続きでは、ありません」

周は、そう置いた。

先週の木曜、つかさ亭の会計際で置いた同じ一行が、今日、川風のうえに、もう一度、同じ抑制の癖のまま、置き直された。

槙は、川面のほうへ、視線を戻した。

「はい」

「今日、俺は、なにか大きなことを、この場で申し上げるつもりで、時間を頂いたわけでは、ありません」

「はい」

「短編集が、書店に並ぶ頃、たぶん、来年の春のはじめだと、思います」

「そのくらいの、時期になると思います」

「その頃に、いちど、装幀の話とは別に、時間を、いただきたい、と、考えています」

「別、と、いうのは」

「仕事の敷居の、外側にある話です」

周は、川面から視線を上げなかった。上げないまま、上着の袖口の縫い目のあたりを、指の腹で、ひと度だけ撫でた。撫でた癖は、大学のサークルの合宿の夜、彼が皆に何かを言いにくいときにしていた癖だった。十年前と、指の位置は、同じだった。

槙は、返事を、すぐには置かなかった。

置かない数秒のあいだに、遊歩道の縁の柵に、水滴がひとつ、乾ききらないままの光を、細く残しているのが、視野の下に入った。ひと粒だけの光だった。ひと粒の光のうえに、朝から歩幅を意識で戻し続けてきた自分の輪郭が、いっとき、映った。

「工藤さん」

「はい」

「今日、その日を、決めなくても、いいですか」

「もちろんです」

「短編集が、書店に並んだ日に、私は、その日のことを、あらためて、考えます」

「そうしていただければ、こちらは、それで、待ちます」

「待たせる時間の長さについて、私からは、いま、なにも、お約束できません」

「約束を、頂きに来た日では、ありません」

周は、そう言って、袖口の縫い目から、指を離した。離した指を、川面のほうへは伸ばさず、上着の胸のあたりで、静かに揃えた。

槙は、頷いた。ひと度だけ、深く、頷いた。


橋を、もうひとつ越えたところで、二人は足を止めた。歩き始めから、二十分は、まだ経っていなかった。周は腕時計を見て、「そろそろ、戻ります」と言った。戻る、と言ったときの声は、今日のなかで、いちばん事務の声に近かった。事務の声で閉じる、と、彼は今日の彼のなかで、決めていた。

「では、また、初校のお戻しの頃に」と槙は言った。

「はい。書面で、ご連絡差し上げます」

会釈の角度は、応接に入る前の朝より、半段、深かった。二人とも、そのことを口にはしなかった。

周は、群青書林のほうへ、川と反対側の道を戻っていった。槙は、川沿いの遊歩道を、駅とは逆の方向に、もう五分だけ歩いた。

歩きながら、上着の胸ポケットに、指先を、いっとき当てた。先週の土曜、便箋一通ぶんだけ軽くなった位置には、今日、書面ではないもうひとつの、時期の預けものが、預けた本人ではない、槙自身の側から、置かれていた。置いた重さの目盛りは、便箋一通よりも、たぶん、細かった。細いままで、上着の内側に、しばらく、留まっていた。

橋の欄干にひと度だけ手を添え、川面を見た。七月の川の光は、六月とも、来週の来る八月の入口とも違う、いまだけの明るさを持っていた。この明るさは、書店に並ぶ頃には、たぶん、覚えていない類のものだった。覚えていないぶんだけ、いま、目のなかに、置いておきたかった。

鞄のなかで、スマートフォンが、短く震えた。差出人は、葉山涼太だった。件名は、短く、「短編、三日目、行けそうです」とあった。本文は、今日もまた、空欄のままだった。

槙は、川面から視線を戻し、返信の代わりに、鞄の内ポケットから、ノートを取り出した。開いたページの、来週の週次予定表のうえに、鉛筆で書いてあった「打ち合わせの、あと」の四文字と一句読点の、そのすぐ隣に、もう一行だけ、書き足した。

「返事は、書店の日に」

書き終えて、書いた七文字と一句読点のうえを、ペンの尻で、いっとき、撫でた。撫でたあと、ノートを閉じた。閉じた表紙のうえに、七月の光が、白く、まっすぐ落ちた。

四月の桜のパーティで、十年ぶりに周の顔を見た日から、三ヶ月と少しが経っていた。三ヶ月と少しの終わりに、槙は、書店の日、という遠い一日を、自分の予定表のうえに、初めて、鉛筆で、置いた。

置いた予定は、ひと度も、消しゴムでは、消さないつもりだった。