第一章「沈黙の聖堂」
第4話「二通目の余白」
公開:2026.05.18 ・ 3,106文字
二通目の余白
夜の修道院で、ひとり起きているということが、これほど怖いと感じたのは、はじめてだった。
蝋燭を、わざと点けなかった。 ライラは、薄い毛布を首まで引き上げたまま、寝台の上で、両目だけを開いていた。 天井の梁は、夜の闇のなかで、何本かに分かれているように見えた。実際には三本しかないことを、彼女は、よく知っていた。
夕の祈りで見たエルマの横顔が、まだ、まぶたの裏に残っていた。 古い言葉で書かれているはずの手紙を、ためらいなく目で追っていた、あの唇の動き。 そして、ライラと目が合ったあとの、いつもどおりの、柔らかい微笑み。
——古い言葉は、わたくしも読めませんでした。
昨夜、エルマは、はっきりと、そう言った。 言った口で、今日の夕、彼女は、その古い言葉を、確かに読んでいた。
ライラは、自分の喉が、薄く乾いていくのを感じた。 喉だけではなかった。指先のいちばん細い節のあたりが、藁の感触の冷たさより、ひとつ手前の温度で、わずかに、痺れていた。
——あの手紙は、いま、どこにあるんだろう。
その問いが、暗闇のなかで、勝手にかたちになった。 三通あった、と聞いた。 夕の柱の影で、エルマは、そのうちの一通を読んでいた。残りの二通は——。
ライラは、毛布の下で、自分の指を、ゆっくりと握りなおした。 握った掌の中央が、いまも、わずかに、温い。あの夕の藍の線が、消えきっていない。
長い時間をかけて、彼女は、寝台から、足を下ろした。 裸足の指が、石の床の冷たさを、ためらいながら確かめる。
それでも、足は、止まらなかった。
回廊の角を、彼女は、よく覚えていた。 聖堂の脇から、図書棟へ抜ける細い通路。その途中の、左側の二つ目の扉。 シスター・エルマが、日中、書状をしたためるのに使う、小さな写字室。 窓は北向きで、午前のあいだだけ、白い光が机に届く部屋。 夜は、たぶん、誰も入らない。
ライラは、廊下の燭台の灯を、避けて歩いた。 裸足の足音は、石の上で、思っていたよりも、響いた。 息を、できるだけ、浅く保つ。深く吸えば、肋骨の動きが、夜の壁を撫でてしまう気がした。
写字室の扉は、押すと、軋まずに、すこし開いた。
中は、月明かりだけで、十分に視えた。 古い樫の机が、ひとつ。 その上に、革の表紙の帳面が、二冊。 机の右手の小さな引き出しが、ほんの指一本ぶん、閉まりきっていなかった。
ライラの息が、もう一度、震えた。 震えた息は、写字室の冷たい空気のなかで、白くは見えなかった。それでも、自分の喉のあたりで、息が、確かにかたちを持って動いているのが、彼女には視えた。
——だめだ。
そう思った口で、彼女は、もう、机の前にいた。
引き出しを、指の腹で、そっと押し戻そうとした。 戻る前に、指は、勝手に、引き出しのほうへ引いた。
中には、半折りの紙が、一葉だけ、入っていた。
修道会の白い紙ではなかった。 もう少し黄ばんだ、目の粗い紙だった。古い紙を、新しく綴じ直した、写しのための余り紙。
ライラは、それを、両手で取り出した。 紙の縁の繊維が、彼女の指先を、わずかに、ざらりと撫でた。 その感触が、なぜか、彼女の鼓動を、ひとつだけ早く打たせた。
紙の中ほどに、エルマの筆跡があった。
几帳面な、細い字。 古い言葉を、薄明語の音に置き換えて、ひと文字ずつ、丁寧に並べた写し。 読める音だけが並んでいて、意味のほうは、まだ、ライラには遠かった。
それでも、その並びの中に、ライラの名前と、よく似た音が、二つ、続けて出てきていた。
紙を持つ指が、ふっと、冷たくなった。
写しの右の余白に、エルマは、小さな絵を、添えていた。 習慣だった。古い言葉を写すとき、エルマは、その文の意味を忘れないように、ちいさな印を、必ず一つ、横に書き入れる。それを、ライラは、子供のころ、何度か、肩越しに、見たことがあった。
その印を、ライラは、見た瞬間に、知った。
中央に渦、その右に二つ並ぶ短い縦の線。
聖堂地下の階段の上の壁に、彫られていたものと、同じ形。 石片の中央にあった記号と、同じ形。 今朝、雑巾の代わりに、彼女が、廊下に置いてきた、あの形だった。
ライラは、紙を、机の上に、そっと、置いた。 置いたまま、袖の中の石片に、左手を、滑り込ませた。
——だめだ、と、もう一度、思った。 そう思ったのに、右手は、すでに、紙の端を、ほんの一寸だけ、持ち上げていた。
石片を、紙の中央の印の真上に、近づける。
石は、生き物のように、彼女の掌の中で、温まっていた。
呼吸を、止めようとした。 止めきれずに、ほんの細い線で、息が、唇のあいだから漏れた。
紙の繊維の、いちばん表のあたりから、紫がかった藍が、ゆっくりと立ちのぼってきた。 夜の藍ではなかった。 祈りのときに、修道女たちの肩のあたりに、ふっと視える、あの色に近かった。
線は、紙の表面を撫でるように動き、エルマの書き写した文字の上を、ひと文字ずつ、確かめるように、辿っていった。 ライラが、ゆっくり息を吐くと、線は、それに合わせて、ためらいながら、伸びた。 吸うと、震えた。
線の太さは、細かった。 記憶の薄い、写しの紙だからかもしれない、と、彼女は、自分でもよく分かっていない法則を、勝手に、心の奥で並べた。
そのとき、半語の声が、もう一度、耳の奥で、響いた。
ライラ——の、ラ、の、その先。
最初の音と、二つ目の音、それに続けて、三つ目の音が、確かに、聞こえた。 それは、彼女の名前の、続きの音では、なかった。 ライラ・ノクトという名前のどこを探しても、その音は、嵌まらなかった。
——別の、誰かの、名前。
その確信は、線よりも先に、彼女のなかに、立ちのぼってきた。
別の誰かの名前の、最初の三つの音を、半分だけ、彼女は、聴いている。 そして、その名前を、エルマは、写字室の余白で、毎日、書き留めていたのかもしれなかった。
紫がかった藍の線が、ふっと、ひと太さだけ、芯を持った。 細い線のままに、しかし、芯のあるところだけが、薄く、夜の藍に寄っていく。 祈りに似た色から、悲しみに似た色へ、ほんのすこし、ずれていく。
ライラの胸が、また、ひとつ強く打った。 打った鼓動が、線の芯に、伝わるのが、視えた。
そのときだった。
回廊の奥のほうから、足音が、聞こえた。
軽い足音だった。 エルマの足音ではない。 モランの足音でも、ない。
修道院の、いま、起きているはずのない、小さな足音。 裸足ではなく、薄い室内履きを引きずるような、子供の足音。
ライラは、息を、止めた。 線も、止まった。 止まったまま、紙の余白の、印の上で、わずかに、震えた。
足音は、写字室の手前で、ふっと、止まった。 扉の向こうで、誰かが、息を、整えていた。
ライラは、紙を、もとのかたちに、急いで、半折りにした。 半折りにしてから、もう一度、紙の余白の印を、目の奥に、焼き付けた。 中央に渦、右に二つの縦の線。 ——ぜったいに、忘れない、と、彼女は、自分に約束した。
引き出しに、紙を、戻す。 指一本ぶん、閉まりきらない位置まで、わざと、戻した。
そして、彼女は、扉のほうへ、ふた歩、退いた。
足音は、まだ、扉の向こうにいた。 誰のものなのか、ライラには、ほとんど、見当がついていた。
修道院には、彼女のほかに、ひとりだけ、子供がいる。 半年前に、隣の村から預けられた、十になるかどうかの女の子。 名前は——、
その名前を、口の中で、唱えようとしたとき。
半語の声が、もう一度、耳の奥で、響いた。 今度は、それまでと、すこし、違った。 最初の音だけでも、二つ目の音だけでもなく、三つ目の音だけが、はっきりと、ひとつだけ、彼女の名前の最後の音を超えていく、その先で、響いた。
ライラの掌の中で、石片が、夜の藁よりも、確かに、温かかった。