NOVLUM

もう一度、八月

第二章「梅雨の打ち合わせ」

第18話「束見本の月曜」

公開:2026.08.26 ・ 3,264文字

束見本の月曜

処暑を過ぎた月曜の朝、神保町の路地の敷石には、夜のうちに落ちた雨の跡が、指の腹一枚ぶんだけ、まだ残っていた。

槙は八時二十分に静秋社の裏口を上がった。鞄のいちばん奥には、宛名だけを書いた便箋が、一枚、まっすぐ寝かせてある。「静秋社 栗原さま」の五文字の下の余白は、水曜の夜から日曜の夜まで、白いままだった。

三階の廊下の突き当たりで、八号室の扉を、両手で押した。栗原はすでに来ていて、湯呑みを二つ、角を挟んだ二辺のうえに、伏せて並べていた。

「おはようございます。束見本、十時、で伺っております」

「はい。装幀室のご担当、お一人で」

「……それが」

栗原は予約表のうえで、鉛筆の芯の先を、いっとき止めた。

「先ほど、群青書林の営業から、お電話がございました。装幀室のご担当は、本日、別件で、お越しになれない、と」

槙は伏せられた湯呑みの縁に、指の腹をひと度だけ置いた。底の茶の輪は、まだ、どちらにも乗っていない。

「束見本は、宅配で頂戴いたしますか」

「いえ」栗原は鉛筆を、窓の側へまっすぐ寝かせた。「代理の方が、お持ちくださる、と」

「代理の方」

「はい。ご芳名は、伺っております」

栗原は予約表の来客欄を、槙のほうへ半歩ぶん押し出した。鉛筆の細い字は、二文字と、二文字で、まっすぐ閉じられていた。

「工藤 周」


栗原が給湯室へ下がってからの三十分を、槙は机のうえの何も置かれていない位置に、視線だけを預けて過ごした。窓の外の空は、雨のあとの青を、季節より半段だけ深めている。

九時五十四分、階段のほうから、革靴の乾いた音が上がってきた。二歩目の重心は、束見本の厚みぶん、わずかに右へ傾いていた。凛子の靴音と、傾く向きだけが同じだった。

扉が、外から静かに、二度叩かれた。

槙は席を立ち、扉を開けた。

「群青書林の、工藤です。本日は、装幀室の代理で、束見本をお届けに上がりました」

四月のパーティの夜から数えて、彼が「工藤です」と名乗ったのは、これが二度目だった。一度目は十年前の四月、大学のサークルの新歓の受付で、彼は同じ抑揚で、同じ二文字を置いた。槙はその抑揚を、廊下の光の下で、いっとき受け取ってから、脇へどけた。

「静秋社 業務委託の、高橋です。お待ちしておりました」

周は会釈をした。角度は、パーティの夜のそれより、半段だけ深かった。

「奥のほうへ、どうぞ」

栗原が茶を運んできた。周の前には、白い縁の薄手のほうを、机の角から指の腹二枚ぶん手前に置いた。二つの湯呑みは、真向かいではなく、角を挟んだ二辺のうえに、それぞれ収まった。

「頂戴いたします」

栗原は会釈をして、扉を静かに閉めた。閉まる音は、いつもの半段だけ、遠く聞こえた。


周は鞄から、白い紙に包まれた束見本を取り出し、机の白いクロスのうえに、まっすぐ寝かせた。包み紙の折り目は、装幀室で畳まれたままの角度をしていた。

「本文用紙、二種。装幀は、先日ご選定いただいた、二案目の仕様で」

「拝見します」

槙は包みを開いた。生成りの地のうえに、朱の一点が、指の腹一枚ぶんの大きさで乗っている。ボードのうえで見たときより、点は、半段だけ、静かだった。

束を、指の付け根で受けた。紙の重みが、手首の内側まで、まっすぐ落ちてくる。

「背の幅は、十五ミリ、で」

「はい。もう一種のほうは、十三ミリ半、になります」

「厚いほうが、いい」

周は、いっとき、顔を上げた。

「理由を、伺っても」

「葉山さんの二篇目は、読み終えたあと、しばらく本を置けない話です。置けない時間のぶんだけ、手のなかに、重さが要ります」

周は頷いた。頷きの角度のなかに、副編集長の眼と、それではないもう半段の眼が、細く重なった。

「装幀室にも、そのまま、お伝えします」

「お願いいたします」

周は鞄から、便箋を一枚、机のうえに寝かせた。縁は、装幀室で切り揃えられた細い切り口のままだった。

「装幀室からの、本日の欠席と、仕様の確認事項です」

便箋の署名は、まっすぐな細い筆致で、「工藤凛子」の五文字で閉じられていた。「工」の縦の払いの位置は、先週の水曜と、動いていない。

槙は、五文字のうえに、視線をふた呼吸ぶん置いた。同じ姓の二文字が、机の同じ面のうえに、いま、二つある。一つは紙のうえに、もう一つは湯呑みの向こうに。

「工藤さん」

「はい」

「本日の代理は、営業経由の割り振り、でしょうか」

周は、湯呑みの縁に指を掛けたまま、ひと呼吸だけ、置いた。

「装幀室からの、直接の依頼です」

「装幀室から」

「はい。今朝、八時に。静秋社様への訪問を、私に代わってほしい、と」

槙は、湯呑みを指の付け根で受けた。受けた指の腹の温度が、湯呑みの陰から、首筋の左側の付け根のほうへ、細く上がってくる。頬の内側の熱が、半段だけ、輪郭を持った。持った輪郭を、槙は、湯呑みの陰に隠さなかった。

「そうですか」

「理由は、伺っておりません」

「はい」

「伺わないままで、束見本を、お持ちしました」


十時二十分、仕様の確認は、実務の三行で片づいた。初校の戻し日、再校の予定、束見本の返却の要否。周は手帳に、細い字で、順に書き取っていった。書き取る指の運びは、抑制の癖の内側で、まっすぐ揃っていた。

書き終えてから、周は手帳を閉じた。閉じた手帳を、鞄には戻さずに、机の端へ寝かせた。

「高橋さん」

「はい」

「先週の、私からのご連絡に、ご返信は、頂戴しておりません」

「はい」

「催促では、ありません」

「はい」

周は、湯呑みを机のうえに戻した。戻した位置は、栗原が置いた位置から、動いていなかった。

「返信の欄を、開いて、閉じられましたか」

槙は、答えなかった。答えの位置に、宛名だけを打って伏せた、あの画面の白い空欄を、いっとき置いた。

周は、それを、待たなかった。

「この企画の担当を、外れようと、していませんか」

湯呑みの陰で、指の付け根が、ひと度だけ、震えた。震えは、湯呑みの底の茶の輪のうえには、伝わらなかった。伝わらない位置で、槙は、湯呑みを、机のうえに静かに戻した。

「どうして、そうお思いになりますか」

「先週の水曜から、静秋社様の事務の宛先が、装幀室が主、営業経由が従、の順序のままです。順序を動かさない人が、順序の外側で、何かを動かそうとするときの、あの静かさがあります」

「静かさ」

「はい。十年前にも、一度、ありました」

槙は、視線を、束見本の朱の一点のうえへ落とした。窓の光の斜めの線は、点の位置から、まだ動いていない。

「工藤さん」

「はい」

「その話は、事務の枠の、外です」

周は、いっとき、黙った。黙った位置で、上着の胸のあたりで、指を静かに揃えた。四月の川沿いで見た、あの抑制の癖と、指の位置は、同じままだった。

「失礼いたしました」

「いえ」

「本日の私は、装幀室の代理です。代理の枠から、半歩、出ました」

「はい」

「出た半歩は、こちらで、戻します」

周は席を立った。立ち上がる指の運びは、来たときと同じ、まっすぐな角度だった。

「本日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」

周は扉のほうへ二歩進んだ。二歩目の重心は、束見本の厚みが抜けたぶん、まっすぐ中央にあった。

扉の前で、彼は立ち止まった。振り返らないままで、こう置いた。

「答えは、今日は、伺いません」

「はい」

「ただ、外れるのなら、その書面の宛先には、私の名前も、入れてください」

扉が、静かに閉まった。


八号室の机のうえに、湯呑みは、二つ、残った。周の側の底の茶の輪は、湯気の縁が引いたあとも、しばらく乾かないままだった。

槙は鞄のいちばん奥から、宛名だけを書いた便箋を、一枚、抜き出した。「静秋社 栗原さま」の五文字の下は、まだ、白い。

白い余白のうえに、いま、宛先が、もう一つ増えた。増えた一つは、こちらの側から差し出したものではなかった。

窓の外で、雨のあとの空が、青の割合を、もう半段、深めた。束見本の朱の一点のうえに、光の斜めの線は、まだ、まっすぐ落ちている。

槙は、便箋を、鞄の奥へは戻さなかった。戻さないままで、机のうえの、束見本の隣に、まっすぐ寝かせて置いた。