NOVLUM

もう一度、八月

第二章「梅雨の打ち合わせ」

第17話「御礼の余白」

公開:2026.08.19 ・ 2,902文字

御礼の余白

残暑の午後、月島の部屋の窓の桟に、指の腹一枚ぶんだけ、乾いた光が乗っていた。

槙は八号室から戻り、鞄を椅子の背に、静かに掛けた。掛けた鞄の口の縁が、椅子の背の木肌のうえで、ほんのわずかに揺れて、止まった。止まった位置から、机のうえまでの距離は、朝、家を出るときと同じ、一定のままだった。

机のうえには、朝、伏せて置いたスマートフォンが、まだ、伏せた位置のまま、あった。裏に返しても、画面のなかの一件は、消えないままで、待っているはずだった。差出人は、栗原でも、葉山でも、凛子でも、なかった。

「工藤周」

槙は湯呑みに湯を注いだ。八号室で凛子と交わした、あの湯呑みの縁のうえの、湯気の位置は、まだ、指の腹の記憶に、細く残っていた。残った位置のうえに、月島の午後の湯気を、まっすぐ、重ねた。

湯呑みを机のうえに置いた。置いた位置は、朝と同じ、机の角から指二枚ぶん手前の、いつもの位置だった。指二枚ぶんの位置は、ふた月前と、動いていなかった。動いていない位置から、槙は、スマートフォンを、指の腹で、ひと度だけ、表に返した。

件名は、朝、八号室で目に入ったままだった。

「装幀の初校、無事に、済んだ、と伺いました。私からも、ひと言、御礼を」

「私からも」——その四文字の位置に、槙は、視線を、ふた呼吸ぶん、置いた。四文字は、事務の温度の枠から、指の腹一枚ぶんだけ、外に出ていた。出ていた指の腹の位置に、金曜の川沿いで、彼が上着の胸のあたりで指を静かに揃えた、あの抑制の癖が、まだ、細く、折り込まれていた。

槙は、返信を、開いた。開いた画面のうえに、白い返信欄が、空欄のまま、まっすぐ立ち上がった。

一行目に、宛名を、打った。

「工藤さま」

打ってから、指を、いっとき、止めた。「工藤」の二文字のうえで、凛子の署名の細い筆致と、周の抑制の温度が、ひと度だけ、同じ位置に、重なった。重なった位置のうえに、槙は、続きを、まだ、置かなかった。

置かない画面を、伏せて、机のうえに戻した。伏せた画面の裏側のうえに、湯呑みの湯気の残りが、指の腹一枚ぶんだけ、乗った。


抽斗から、白い便箋を、また一枚、引き出した。便箋差しの布地に、二週間前と、一昨日と、今日の朝の、三通ぶんの窪みが、細く並んでいた。今日の一枚は、その窪みのすぐ隣に、まっすぐ寝かせて置いた。

宛名を、書かなかった。書かないままで、机の端の、便箋差しの脇に、白いまま、寝かせておいた。寝かせておいた紙のうえに、視線を、ひと度だけ、置いた。置いた位置のうえに、朝、装幀二案目の生成りの地に落ちた、朱の一点の位置が、細く、重なった。

書けなかった一行が、便箋のうえの空欄の中央に、まっすぐ、あった。書けなかった一行は、宛名の欄ではなく、便箋の三段落目の位置に、あった。

御礼の返しの位置は、事務の枠のなかで、まっすぐ書ける。書けないのは、事務の枠の外に、指の腹一枚ぶん、はみ出したい、その半段の温度の置き方だった。半段を置いても、置かなくても、周の側の抑制の癖は、動かない。動かない位置に、こちら側の半段を、まっすぐ差し出すことの意味を、槙は、机のうえで、一度、量った。

量ったあとで、答えは、置かなかった。

置かないままで、槙は、机のうえの、白いままの便箋の隣に、朝、八号室で凛子から受け取った、書面二枚を、静かに並べた。装幀二案の選定の書面と、初校日程の書面は、いずれも「工藤凛子」の五文字で、まっすぐ、閉じられていた。閉じられた五文字の縦の払いは、朝、槙が凛子の前で書いた宛名の縦の払いと、指の位置が、動いていなかった。動いていない位置のうえに、槙は、周への返信欄の「工藤さま」の四文字を、いっとき、視野の下に、預けた。預けた位置のうえで、四文字は、装幀室の側にも、副編集長の側にも、まだ、どちらにも、寄り切れずにいた。


夕方、鞄のなかで、電話が短く震えた。差出人は、葉山涼太だった。

「もしもし」

「槙さん、装幀、決まりましたか」

「はい。二案目、で」

「点、のほう」

「はい。点、のほう」

葉山は、いっとき、黙った。黙りの位置は、原稿の講評のときの、あの、いつもの半段の間だった。

「点は、時間の重み、ですよね」

「はい」

「装幀の側が、そう置いてくれる企画の位置は、書き手にとって、指の落ち着きが、半段、違います」

「はい」

「槙さん」

「はい」

「今日、宛先の位置、まっすぐ、装幀室に、届きましたか」

槙は、湯呑みを、指の付け根で受けた。湯呑みの陰に、首筋の左側の付け根の温度が、まだ、細く残っていた。

「はい。届きました」

「そのことは、周さんの側にも、事務の書面で、届いていますか」

「はい。栗原さんから、経緯だけ、通していただきました」

「なら、それでいい」

葉山は、それ以上、訊かなかった。訊かないままで、いっとき、受話器の向こうの、原稿の紙をめくる音を、槙のほうへ、まっすぐ届けた。めくった紙のうえに、葉山の指の温度は、いつもの位置で、まっすぐ、落ちていた。

「僕は、あの企画、槙さんの担当のまま、進んでほしいと、思っています」

「葉山さん」

「はい」

「そのご言葉は、書き手として、ですか。それとも、友人として、ですか」

葉山は、ふた呼吸ぶん、間を置いた。

「書き手として、です。友人として、は、また別の日に、置きます」

「はい。頂戴いたします」

電話は、静かに、切れた。切れた画面のうえに、槙は、指の腹を、ひと度だけ、乗せた。乗せた指の温度は、湯呑みの陰の温度と、同じ位置に、まっすぐ、揃った。


夜、槙は、机のうえの、書かないまま寝かせた便箋を、いっとき、指の腹で撫でた。撫でたあとで、便箋差しの、いちばん奥の、まだ一度も抜いていない位置の紙を、一枚、抜き出した。

宛名を、書いた。

「静秋社 栗原さま」

書いた縦の払いは、朝、栗原が湯呑みを置いた指の、あのまっすぐな角度と、同じままにした。同じままにした宛名の下に、本文の一行目を、まだ、置かなかった。

置かない一行の位置に、槙が、いま、量ろうとしていたのは、この企画の担当の位置を、事務の枠のなかで、いっとき、外れる、その申し出だった。

書き手として、担当のまま進んでほしいと、葉山は、言った。装幀の側が、生成りの地に朱の一点を置いてくれた凛子の位置に、こちらの半段が、はみ出さない位置で、企画は、まっすぐ、進んでいく。進んでいく企画の宛先の、いちばん奥の、担当編集の欄の位置に、自分の名前が、まっすぐ立っていられるかどうかを、槙は、机のうえで、いま、量ろうとしていた。

湯呑みを、指の付け根で、もう一度、受けた。湯呑みの陰に、首筋の左側の付け根の温度は、まだ、消えていなかった。消えないままで、槙は、便箋のうえに、視線を、ふた呼吸ぶん、置いた。

置いたあとで、宛名の下の、まっさらな白い余白のうえに、書き出しの一文字を、静かに、置こうとした。指の腹の温度は、湯呑みの陰の位置に、まだ、細く、残っていた。

外の月島の路地の、街灯の白い光が、時季より、さらに半段、早く灯った。灯った白い光の下で、便箋の白い余白は、まだ、書かれないままで、机のうえに、まっすぐ、あった。