第一章「四月の再会」
第10話「試し刷り」
公開:2026.07.01 ・ 2,945文字
試し刷り
金曜の夕方、月島に戻ると、集合ポストのいちばん下の段に、厚みのある白い封筒が入っていた。
差出人は、群青書林。宛名は、「高橋槙さま」と、周の直筆で書かれていた。事務の宛名の書き方だった。事務であるはずの文字の中に、指先で覚えている癖の傾きが、いくつか残っていた。縦の払いが、ほんの半ミリだけ左に流れる癖。十年前の大学のノートの、余白の脇にも同じ流れがあった。槙は封筒を胸のあたりで軽く抱え、階段を上がった。
部屋に入り、コートを掛け、鍵を鍵置きの皿に落とした。皿の底で、鍵と鍵の触れる音が、乾いた形で戻った。窓の外は、まだ雨を降らせるかどうかを迷っている空だった。天井灯は点けず、机の卓上灯だけ点した。
封を、ペーパーナイフで切った。中には、A4のサンプル束が三つ折りにされて、それぞれ薄い紙帯で束ねられていた。装幀家の名前ごとに、細い活字の付箋が貼ってあった。上から順に、上原、工藤、篠田。工藤の束が、真ん中に挟まれていた。
槙は、まず上原の束を広げた。
編集者の眼で見る、と心のなかで一度だけ言い直した。仮題『三十二歳の声』の、四篇の短編集。短編集の背骨は、副題を並べた瞬間に立つ。装幀は、その骨の外側に、読む前の三秒の時間を作る仕事だった。上原の試し刷りは、白地に細い明朝の一行が斜めに落ちるレイアウトで、余白の呼吸が抑制的だった。仕事は、まっすぐで丁寧だった。
次に、篠田の束を広げた。篠田とは、槙も二年前に別の仕事で組んだことがあった。今回のサンプルは、地の色を薄い翡翠に振り、活字を大きく置く方向で来ていた。四十代の女性読者を強く意識した設計だった。悪くない、と口の中で小さく言った。悪くない、というのは、編集者としての言葉で、迷い、の反対語に近かった。
真ん中の束は、あえて最後に回した。
工藤凛子の束の帯を、指先で解いた。紙が擦れる音は、他の二人よりも半音だけ低かった。
一枚目は、白い紙に白い活字だった。よく見ないと、そこに文字が置かれていることが分からなかった。二枚目は、その白のうえに、湿った灰色の細い筋が、雨の落ちる方角と直交して走っていた。三枚目は、その灰色が下辺に溜まり、下辺のところで、細い橙のひと筋を、いっとき映していた。
槙は、束を机のうえで、ゆっくり並べ替えた。
三枚を並べると、白から灰、灰から橙の細い一筋、という時間の順序が、装幀のなかに畳み込まれていた。仮題『三十二歳の声』の、“声”のほうを、色ではなく光の順序で写した設計だった。橙のひと筋は、章扉のインクの色に呼応するように置かれていた。周から事前に共有した章扉の候補色の指定が、そのままここに落とし込まれていた。
編集者の眼で見た、と、もう一度、口の中で言い直した。
上原、篠田、工藤。三名分の頁を、机のうえに横に並べた。並べたときに、指の付け根の関節に、湿ったこわばりが薄く走った。窓の外の空気を、部屋の中の空気が、いつのまにかもう一段吸っていた。槙は右手を、いったんテーブルの端で握り直した。編集の判断は、指の湿りとは別の場所で下ろすことだった。下ろす場所を、いつもの位置に、意識で戻した。
上原は、書き手三名の輪郭を、揃えて引き上げる装幀だった。篠田は、書店の平台での立ち上がりを、いちばん強く取れる装幀だった。凛子は、書き終えた読者の手元で、いちばん長く残る装幀だった。
槙はノートを開き、頁の左に三本の縦線を引いた。それぞれの上に、装幀家の名前を書いた。線の下に、「揃え」「立ち上がり」「余韻」と、一語ずつ書いた。書いてから、余韻、の下に、線を一本だけ引き足した。線は、他の二本の縦線より、ほんの半ミリだけ太かった。
そこまで書いて、束のいちばん下に、四つ折りの薄い和紙が一枚、挟まれていることに気づいた。
サンプルの帯には含まれていなかった。工藤の束の背に、内側から静かに差し込まれていた。開くと、上質な白の便箋だった。手書きで、四行だけ。文字は、宛名の癖とは別の癖の、細い女性の手だった。
「高橋槙さま
このたびは、装幀候補にお声掛けをいただき、ありがとうございます。試し刷りは、あくまで編集者としての判断のうえで、ご検討ください。
工藤凛子」
槙は、便箋を、机のうえに横向きに置いた。
読み返す必要のない、短さだった。短さの中で、一行目と二行目のあいだに、一行分の余白が、意図的に取られていた。「あくまで編集者としての判断のうえで」。その一行の内側に、“それ以外の判断で選ばないでください”という含みと、“それ以外の判断で選ばれないと知っています”という含みが、両方、静かに並んでいた。
槙は、湯を沸かし直した。珈琲の粉を落とし、ドリッパーの一滴目を、いつもより短く受け止めた。カップを両手で包み、便箋のほうを、もう一度、正面から見た。指の腹に、カップの熱が伝わった。伝わった熱を、湯呑みの陰に隠さないままにした。今日は、隠す相手が、目の前にいなかった。
窓の外で、雨が、また細く落ち始めた。落ちるかどうか迷っていた空が、迷い終えていた。
槙は、ノートの右端に、四文字だけ書き足した。
「編集の眼で」
書いた文字の下に、線を一本、引かなかった。
土曜の朝、目が覚めたとき、机のうえに、昨夜のノートと便箋が、置かれた位置のまま残っていた。
槙は起き上がり、まず珈琲を淹れ、それから机のところへ戻った。カーテンを開けると、七月最初の朝の空は、雨のあと特有の、洗い落とされた青をしていた。空気の湿度が一段下がっていて、机のうえの紙の縁が、昨夜より少しだけ張っていた。
槙は、装幀サンプルを、もう一度、上から順に見直した。編集者の眼を、昨日よりもう少しだけ、遠くの位置に持っていって見た。三枚の順序は、変わらなかった。上原、篠田、凛子の三名のうち、短編集の “手元で残る” 装幀として選ぶなら、凛子の一択、というのが、二度目の眼で見た答えだった。
答えは、決まった。決まったことに、槙は、少しだけ驚かなかった。
ノートを開き、昨日引いた三本の縦線のいちばん右、“余韻”と書いた列の下に、一行、書き足した。
「本命:工藤凛子」
書き終えて、書き終えた四文字を、ペンの尻でしばらく撫でた。撫でているうちに、便箋の一行、「あくまで編集者としての判断のうえで」が、耳の裏で、もう一度鳴った。凛子の一行は、槙の判断を止める言葉ではなかった。むしろ、判断を、正しい向きに、まっすぐ立ててくれる言葉だった。
返信を、今日のうちに書くか。槙は自分に、ひと度だけ問うた。
問うた瞬間、机のうえのスマートフォンが、短く震えた。差出人は、周だった。件名は、「装幀サンプル、届きましたでしょうか」の、一行だけだった。本文の書き出しは、まだ読んでいなかった。
槙は、指を、画面のうえで、ひと呼吸ぶん止めた。
返信を書く順序が、周と、凛子とで、逆にならないか。逆になることが、“表情を変えない編集者”の輪郭に、静かに触れないか。
窓辺で、朝の光が、机のうえのサンプルの白を、いっとき強く照らした。
槙は、周のメールを、まだ開かなかった。
その代わりに、白い便箋を裏返し、裏面の余白に、鉛筆で、下書きの一行だけ書いた。
「工藤凛子さま」。
宛名の五文字の隣に、まだ、本文は、置かなかった。