第一章「四月の再会」
第5話「五月の往復」
公開:2026.05.27 ・ 3,054文字
五月の往復
五月の終わりの夕方は、四月のそれより、青みが沈むまでに少しだけ時間がかかった。
槙は静秋社の小さな会議室を借り、ノートパソコンを開いた。窓の向こう、神保町から飯田橋へ続くビルの隙間に、夕陽が斜めに差している。会議室の机は二人がけだが、槙はいつも、奥側の一席だけを借りる。社員でない自分の席を、社内のどこかに持つことの居心地は、四年経ってもまだ少しだけ落ち着かない。けれど借りるたびに、社員の人たちは珈琲マシンの場所を教え直してくれた。今日は教えてくれる人さえいない、静かな夕方だった。
遠くの編集部の島で、誰かがプリンタを使っている音が、断続的に聞こえる。電話のベルが二度鳴って、三度目で止まった。槙はそれらの音を、聞いているとも聞いていないとも言えない距離で、机のうえに置いた。借りもののこの席は、誰かの仕事の音から自分を守ってくれる位置にある。守ってくれる代わりに、いつでも自分が借りものであることを思い出させてくる。
メールの一覧を開くと、午後のうちに、執筆候補から二通の返信が増えていた。一通は浅井詠子。打ち合わせの候補日を三日、こちらに提示してきていた。もう一通は別の候補作家、藤野朔(ふじの さく)からの「お引き受けします」。短い、けれど迷いのない返事だった。
槙はまず、周への報告メールから書こうと決めた。
新規メールを開き、宛先に「群青書林 文芸第二編集部 工藤様」と入れた。件名は「『三十二歳の声』執筆候補ご打診の進捗(高橋)」。本文を書きかけて、消した。最初の下書きには「お忙しいところ恐縮ですが」と書いてあり、二度目には「進捗をご報告差し上げます」と書いてあり、三度目には何も書かなかった。三度書き直し、いちばん短い形に落ち着けた。
「工藤様 お世話になっております。本企画につき、現時点で浅井詠子先生、藤野朔先生のお二方からご快諾を頂戴しました。残り三名にも、今週中にお返事をいただけそうです。打ち合わせ候補日は、改めてお送りします。 高橋」
送信を押す前、槙は文末の「高橋」をいちど消し、「高橋槙」と打ち直し、もう一度「高橋」に戻した。三度目で、送信した。送信ボタンを押した瞬間、画面の右上に、既読の通知が思いがけず早く灯った。
返信は、五分で来た。
「高橋様 ご報告ありがとうございます。お二方とも企画の趣旨にご賛同いただけて、何よりです。日程はこちらの候補もあわせて、明日中にお送りします。お疲れさまでした。 工藤」
槙の指先が、最後の一行で止まった。
「お疲れさまでした」。
仕事の場で、誰もが使う挨拶の語に近い言葉だった。けれど十年前の周も、その一言をよく使った。サークルの集まりの帰りに、終電の改札の前で。試験勉強の夜、メッセージの最後の一通に。「お疲れさま」とだけ。感情を乗せない、ただ、何かが終わりかけたときにだけ打たれる言葉。同じ角度で、いま、画面のなかにあった。
確認した、というほど明確な動作ではなかった。喉のあたりで、ひと呼吸ぶんだけ、息の温度が変わった気がしただけだった。
槙はパソコンの画面をそのままにして、しばらく窓のほうを見た。夕陽はもう半分以上ビルに隠れて、会議室の白い壁に、薄いオレンジが残っているだけになっていた。残っているうちは、まだ夕方だった。残らなくなったら、夜だった。それだけの境目のことを、今夜は、いつもより丁寧に見ていたかった。
静秋社を出て、神保町の路地を歩いた。五月の終わりの空は、四月のそれより、青みがしばらく沈まない。槙はゆっくり歩いた。今日は、歩幅を整えるよりも、流れていたかった。
九段下から大江戸線に乗り換え、月島で降りた。車内は半分くらい埋まっていて、隣の席の年配の女性が、文庫本を読んでいた。表紙のカバーは外されていて、何の本かは分からなかった。槙は意味もなく、その本のページ数の進みかたを、しばらく目で追った。一駅のあいだに、女性は二ページ進んだ。読書のテンポが自分とよく似ていた。
月島の部屋に戻ったのは、八時前だった。鍵を回し、灯りをつけ、コートをハンガーにかけて、机に座った。冷蔵庫を開けず、机のうえの飲みかけの白湯のカップを引き寄せた。冷えた水分が、思っていたよりも喉にやさしかった。
ノートパソコンを開き直し、浅井詠子への返信を書いた。これは、迷わなかった。
「浅井先生 このたびはご快諾を賜り、心よりお礼申し上げます。打ち合わせの候補日、いずれもこちらで調整がつきます。先生のご都合のよろしい日をお選びください。打ち合わせ場所は、神保町のつかさ亭でいかがでしょうか。古い喫茶ですが、長居しても怒られない店です。 高橋槙」
「つかさ亭」と書いた指先が、書きながらほんの一瞬だけ止まった。先週、十年ぶりに足を踏み入れた店の名を、今、自分が打ち合わせ場所として、当たり前のように打っていた。
送信した。
送信したあとで、机の二段目の引き出しを開けた。書類のあいだから、連休前に書きかけたままの裏紙を一枚、取り出した。葉書ほどの大きさの白紙に、青いインクで、一行だけ書かれていた。
「拝啓、二十二歳の私」
その先は、書けていなかった。書こうとして、何を書くべきか分からなくなり、机にしまったまま、五日が過ぎ、十日が過ぎた。今日が、書きかけてから二十日目だった。
書き始めた夜のことは、覚えていた。連休の二日前の夜、仕事の手が一段落して、ふと万年筆を握りたくなった。月に何度かそういう夜がある。デジタルでない筆記具の重さを、指先で確かめたくなる夜。何を書くともなく、机のうえの裏紙に万年筆を置いた。ペン先のインクが落ちて、それが文字の形をとる前に、頭のなかに浮かんでいたのは、二十二歳の自分の顔だった。
槙はその紙を、しばらく手のひらの上で揺らした。揺らしているうちに、自分がこれを、捨てるべきかしまうべきか、まだ決めかねていることに気づいた。捨てないなら、しまっておくしかない。しまっておくなら、いつかまた取り出して読み返す日が来ることになる。十年前の周も、たぶん、こうやって何かをしまっておいた人だった。それを十年経った今でも覚えているか、忘れたか、いまの槙にはまだ判らない。
紙を四つに折り、机のうえの白い事務用封筒に入れた。糊はつけなかった。封をしてしまうと、決定的になりすぎる気がした。引き出しのいちばん底、ほかの紙の下に、そっと置いた。
机の上には、もう何も残らなかった。冷えた白湯のカップだけが、ぽつんとあった。
槙は立ち上がり、窓を少しだけ開けた。隅田川の方角から、五月の終わりの風が入ってきた。風には、もう、夏の輪郭が薄く乗っていた。湿度の質が、四月の風とは違っていた。風はひと足、季節を越えていた。
スマートフォンが、机のうえで短く震えた。
差出人は、葉山涼太だった。件名は短かった。
「『先生』、やめてもらえた一日目のお礼まで」
本文は、空欄だった。
槙は、画面をいちど閉じた。閉じてから、もう一度開いた。短い件名の文字列が、画面のなかで同じ位置に同じ角度で並んでいた。返信ボタンには、まだ指は触れなかった。
葉山さん、と呼ぶための一通を、いま書くべきなのか、書かないでおくべきなのか、槙にはまだ判らなかった。判らないまま、画面を伏せ、また開けた。長いあいだ、その繰り返しが続いた。窓辺で、五月の終わりの風がもう一度、机のうえの封筒の角を、ほんの少しだけ持ち上げた。
夏は、もうそこまで来ていた。
槙は、窓を閉めた。閉めてから、灯りを消すのを、しばらく忘れていた。