第一章「四月の再会」
第4話「五月の付箋」
公開:2026.05.20 ・ 3,475文字
五月の付箋
五月の連休が明けて、隅田川の上を渡る風が、五日前よりすこし青くなっていた。
槙は月島の部屋の窓を開け、ベランダから水面を眺めた。連休のあいだ、街は人が抜けて静かだった。連休のあいだに、自分の頭の中もどこかで人が抜けるはずだった。けれど五日経っても、抜けたものよりも、置きざりにされたもののほうが多いように思えた。風の中には、若葉の青さと、川の表面に乗った微かな油の匂いが混じっている。槙は窓を半分だけ閉めた。
机に戻り、ノートパソコンを開いた。仕事のメール一覧の中に、未読は二件、既読のまま返事をしていないものが一件あった。一件のほうの差出人は、葉山涼太だった。
「槙さん、ちょっと相談があるんだけど」
それだけの一行。連休前の夕方に届いて、連休のあいだに返そうと思っていた。連休のあいだに、と引き延ばすうちに、自分でも返さない理由が分からなくなった。葉山が「相談がある」とだけ書いてくるとき、たいていは小説の構想だった。槙は、葉山の小説の構想を聞くのが好きだった。聞くのが好きなのに、なぜ返事を遅らせたのか、うまく説明できなかった。
連休明けの月曜の朝、槙はメールに返信した。
「先生、ご連絡が遅くなりました。今週、お時間いただけませんか」
書いてから、文末の句点を一つ足して、削った。送信ボタンを押すまでに、二度迷った。送ったあとで、机に置いてあった珈琲のカップに手を伸ばすと、もう冷めていた。
葉山からは、五分後に返事が来た。
「明日の午後、飯田橋の例の店でどうですか」
例の店、というのは、文芸誌の編集会議のあとで何度か立ち寄った喫茶店のことだった。神保町から都営線で一駅。表通りから外れた古いビルの二階。窓が大きく、午後の光が斜めに入る店。葉山は短編の打ち合わせを、必ずそこでする。
「お待ちしています」と返した。
返事を送り終えてから、槙は仕事のリストを開き直した。執筆候補の作家への打診メールは、すでに昨日のうちに五通とも送り終えていた。あとは、返事を待つしかなかった。仕事のあいだだけ、自分の頭から葉山と周のことが消える時間がある。それが、いまの槙にとってはひそかな救いだった。
翌日の午後三時、飯田橋の喫茶店。
槙が店に入ると、葉山はすでに窓際の席に着いていた。テーブルの上に、A4のプリントの束が積み重なっている。プリントの右側には、黄色とピンクと水色の付箋が、束のあちこちから飛び出していた。葉山は付箋の量に比例して書き直しの段階に入っている。担当を始めた頃から、槙はそれを知っていた。
「お待たせしました」
「いえ。早く着いただけです」
向かいに座り、メニューを開かずに「ホットで」と店員に言った。葉山もすでに同じものを注文していた。
「先生、お元気でしたか」
「元気というか、書いてはいました」
「いま書かれているのは、長編のほうですか」
「短編、です。長編の合間に、短編を一本」
葉山は付箋だらけのプリントを、両手で軽く揃え直した。表紙にタイトルらしき文字はまだなかった。仮題のまま、表紙を作っていないのだった。葉山が表紙を遅らせるのは、本文の重心がまだ定まっていないときだった。
「これ、ちょっと、聞いてもらってもいいですか」
「もちろんです」
葉山は付箋の中から、水色の一枚を指先で軽く撫でた。撫でながら、視線をテーブルに落とした。槙は、葉山がこれから話そうとしていることが、いつもより少し慎重に運ばれることに気づいた。
「中年に差しかかった女性が、若いころに別れた相手と再会する話を、書こうかと思っているんです」
葉山の声は、いつもの調子だった。仕事の声で、構想を話す声で、それ以上でも以下でもなかった。槙は片手でカップの取っ手を握ったまま、もう片方の手の指先で、テーブルの木目を一度なぞった。なぞる、というほどの動きではなく、ほんの一センチだけ動かしただけだった。
「再会、ですか」
「ええ。十年か、十二年か、それくらい経って会う。会ったあとで、お互いの今の暮らしのなかに、戻っていく話です。お互いに、戻れる場所がある人として」
「やり直す話ではないんですね」
「やり直しません」と葉山は言った。「やり直さない話を、書きたいんです」
槙は黙ってうなずいた。うなずきながら、自分の喉のあたりで、息がいちど浅くなったのを感じた。気づかれないように、ゆっくり吸い直した。
「これ、槙さんに聞いていいのか、最後まで迷ったんです」
葉山が、初めて視線をテーブルから上げた。眼差しは穏やかだった。穏やかで、こちらを試すような色は一切なかった。
「どうして、ですか」
「うまく言えないんですけど」と葉山は言って、笑った。「先週の懇親会の帰り、改札のあたりで槙さんを見かけて。声をかけられなくて、結局そのまま帰ったんですが」
槙は息を吸い直した。今度はうまく吸えた。
「あのとき、一緒に歩いていた方、群青書林の方ですよね」
「ええ」
「お知り合いだったんですね」
「学生のときの、知り合いです」
葉山は、それ以上は訊かなかった。訊かないところが、葉山だった。槙の担当を三年してきて、槙の話さないことは訊かない、というのが、葉山の流儀になっていた。
「だから、この構想を最初に話すのが、槙さんでよかったのか、迷いました」
「先生」と槙は言った。「私は、その話を読みたい読者の一人です」
声が、思っていたより落ち着いて出た。仕事の声に近い、けれど少しだけ柔らかい声で、出た。葉山は短く息を吐いて、軽くうなずいた。
「読者として、ですね」
「読者として、です」
「分かりました」
葉山は付箋の中から、ピンクの一枚を剥がして、別の頁に貼り直した。仕事をする手の動きだった。仕事の場面に、話を戻すための手の動きだった。槙はそれを見ながら、自分のカップに口をつけた。珈琲は、もうほどよい温度に下がっていた。
それからの三十分は、純粋に短編の構造の話だった。冒頭をどこから入るか、再会の場面を引きの絵にするか、寄りで書くか、語り手の視点を女性側にするか男性側にするか。槙はノートを開き、葉山の言葉を抜き出して書き留めた。担当編集の顔で、ペンを動かした。書きながら、自分の頭の半分がきちんと業務に戻っていることに気づいた。残り半分は、まだ別のところで動いていた。それでも、書ける範囲は書けた。
会計の前に、葉山が言った。
「槙さん、ひとつだけ、いいですか」
「はい」
「年齢設定なんですが、主人公を三十二歳にしようかと思っています。僕より三つ若い設定で、今の暮らしのほうがまだ動かしやすい年齢。これ、嫌じゃないですか」
槙はノートのペンを止めた。ペン先のインクが、薄い線を引いてから止まった。
「嫌、というのは、どういう意味で訊かれていますか」
「文字どおりです」と葉山は言った。「もし嫌だったら、別の年齢にします」
葉山の目には、相変わらず試す色がなかった。仕事の話として、いちばん良い設計を確認しているだけの目だった。槙は短く息を吐いた。
「読者として、三十二歳の主人公を読みたいです」
「分かりました」と葉山は言い、付箋の水色の一枚を、表紙にあたる白紙に貼り直した。仮題が決まる前の、ただの目印として。
店の外に出ると、五月の午後の光が、飯田橋の坂道にまっすぐ落ちていた。葉山と槙は、坂の上で軽く会釈をした。
「先生、と呼ばないでもらえますか、今日だけ」
別れる直前で、葉山がそう言った。
「葉山さん、でいいです。仕事の場では先生でかまわないんですが、今日のいまの話の続きを、もしいつか聞かなきゃいけないときがあったら、葉山さん、と呼んでもらえますか」
「それは、——どうしてですか」
「先生、と呼ばれると、立場が動かないので」
葉山は、それだけ言って、駅とは反対の方向へ歩いていった。彼の住む街はそちらだった。槙はしばらくその後ろ姿を見送ってから、自分の駅のほうへ歩き出した。
歩きながら、コートのポケットに手を入れたとき、スマートフォンが短く震えた。
差出人は、執筆候補の作家、浅井詠子だった。件名は短かった。
「『三十二歳の声』、お請けします」
槙は歩きながら、本文を開いた。本文も、短かった。
「ちょうど、二十二歳のころに書いたものを読み返していたところでした」
槙は画面を一度伏せ、息を整えた。手のひらが薄く熱を帯びていた。仕事の返信としては、上々の出だしだった。そう自分に言い聞かせた。言い聞かせながら、坂の途中で、振り返ろうかと思って、結局しなかった。
葉山の店の窓は、もうここからは見えなかった。
風はまだ青く、坂の上から下へ、まっすぐに吹き降ろしていた。