NOVLUM

もう一度、八月

第一章「四月の再会」

第2話「四月の改札」

公開:2026.05.06 ・ 2,843文字

四月の改札

スピーチが終わってからの一時間が、長かった。

槙は壁際のテーブルにグラスを置き、何度か時計を確認した。腕時計を見るたびに、針はほとんど進んでいない。終わるのを待っていると時間は重く動く。これは何の場でも同じことなのに、毎回、同じことを思う。担当作家の葉山と二度ほど目が合い、ふたりとも軽く頷いて、それ以上は話さなかった。葉山は別の文芸誌の編集者と込み入った話の最中で、邪魔をしたくなかった。

工藤周の姿は、人混みの向こうに見え隠れしていた。話している相手は、群青書林の若い社員らしき男性と、書店の文芸担当者だった。槙は意識して目を逸らした。逸らしながら、自分が逸らしていることに気づいて、胸の奥がかすかに痛んだ。

懇親会のお開きが告げられたのは、九時を少し回ったころだった。人波が出口へ向かう。槙はコートをクロークで受け取り、エレベーターに乗った。ひとりきりの空間に降りた瞬間、肩から力が抜けるのが分かった。鏡張りの壁に映った自分は、思っていたより少しだけ疲れた顔をしていた。化粧の薄い目元に、夜の翳りが落ちていた。

ホテルの正面玄関を出ると、四月の夜気が頬に触れた。昼より少しだけ温度が下がっている。風の中に、まだ桜の名残りのような白い粉と、すぐそこの古書店から漏れてくる紙のにおいが混ざっていた。槙はコートの襟を立てて、駅へ向かう路地に歩き出した。

神保町の交差点までの道は、夜になると人が一気に減る。書店はもう閉まっていて、シャッターの隙間から本の背表紙の影だけが見える。古い建物の並びに、新しいカフェの灯がぽつんとひとつ残っていた。槙は歩幅を一定に保って歩いた。考えごとをすると歩幅が乱れる癖を、自分でよく知っている。今夜は、乱したくなかった。

地下鉄の入り口に着く手前で、後ろから足音が近づいてくる気配がした。誰かに声をかけられる前に、槙は少しだけ振り返った。

「——同じ方向でしたね」

工藤周だった。

黒いコートの襟をかるく合わせて、息を切らさずに歩いてきた人の歩幅で、槙の隣に並んだ。十年前と同じだった。歩くのが速い人。槙のほうが少し急ぎ足になることで、ようやく釣り合う。

「半蔵門線ですか」と槙は訊いた。

「九段下から東西線に乗り換えます」

「わたしも九段下まで」

短いやり取りで、二人ぶんの行き先が確定した。改札までは、五分もない距離だった。

しばらく無言で歩いた。槙は何か話すべきだろうかと考え、考えること自体が不自然な気がして、結局なにも言わなかった。沈黙の質が、十年前と少し違っていた。あの頃の沈黙は、互いの言葉を待っている沈黙。今夜のそれは、待っていない。それぞれの場所からの、距離のある沈黙だった。

「葉山先生の新刊、おもしろかったです」

先に口を開いたのは、周のほうだった。

「読んでいただいたんですか」

「先週、書店で平積みになっていたのを、つい」

「ありがとうございます」

「あの方、最後の章だけ、文体が変わるんですね」

槙は少し驚いた。気づく人がほとんどいない箇所だった。葉山自身が「自分でも気づかれないまま終わると思っていた」と言っていた、地味で、しかし本人にとっては勝負の仕掛け。

「お気づきになりましたか」

「変わるのは、句点の打ち方が、少しだけ」

「そうなんです」と槙は言った。「最初の打ち合わせの段階で、最後の章だけ別の人が書いているように読ませたい、と先生からご相談があって」

「うまくいっていますね」

「先生は、嬉しがると思います」

槙は微笑んだ。微笑んだあとで、自分が今夜はじめて自然に微笑んだことに気づいた。

二人はしばらく、葉山の話だけをした。彼の文体、新刊の評価、次に控えている長編の構想。仕事の話だけをしている限り、声は落ち着いていた。槙の語彙のなかから、「〜かもしれない」「〜だと思う」がいつの間にか消えていた。仕事の話だと、断定が増える。それは槙の癖だった。

九段下の駅が近づいてきた。改札の上のデジタル表示が、終電まで二十二分と告げている。

階段を降りる前に、周が立ち止まった。

「高橋さん」

「はい」

「来週か再来週、お時間いただけますか」

「企画のお話、ですよね」

「ええ。一度きちんと、企画書をお渡ししたい」

槙は息を吸った。胸の奥で、心臓が一拍だけ強く打った気がした。それは仕事の場面でも時々起きる、緊張の予兆に似ていた。けれど今夜のそれは、緊張だけではない何かを混ぜていた。

「お送りいただいたら、こちらの予定をお返しします」

「助かります」

形式的な答えになった。形式的な答えで、自分を守った。

改札の前で、二人は会釈を交わした。周は東西線のホームへ向かい、槙は半蔵門線のほうへ歩いた。改札に切符を通すとき、指先が一瞬、強張った。コートの内ポケットに入れた名刺の角が、薄い布越しに胸のあたりに触れていた。

ホームへの階段を降りるとき、槙は浅く息を吐いた。電車の到着を告げるアナウンスが、構内に響いた。階段の途中で、もう一度振り返ろうとして、結局しなかった。振り返らないことを、自分に課した。

電車に乗り込むと、車内は思ったより空いていた。窓際の席に座り、コートのポケットから名刺を取り出した。「群青書林 文芸第二編集部 副編集長 工藤周」。指先で角を撫でた。紙の角は思っていたより固く、爪のあいだにわずかに引っかかった。

電車は走り出した。窓ガラスに、自分の顔が薄く映った。地上の街灯が流れ、その上に重なって、頬のあたりが少しだけ赤いのが見えた。気のせい、と思おうとした。気のせいだ、と思おうとして、思いきれなかった。

月島の駅で降りると、川沿いの風が冷たかった。隅田川は夜のあいだ、油のような暗さで動いている。槙は橋を渡り、古いマンションの四階まで階段を上った。エレベーターは動いているが、夜は使わない。階段を上る三分のあいだに、頭のなかの整理がつくときがあるからだった。

部屋のドアを開けて、灯りをつけた。コートをハンガーにかけた。テーブルの上に名刺を一枚、置いた。それから、手帳を開いて、来週の予定を確認した。空いている日が三日あった。

手帳の余白に、何も書かなかった。書く前に、ペンを置いた。書いてしまうと、決まる気がしたからだ。

冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、グラスに注いだ。一口飲んで、息をついた。冷たさが喉を通ると、ようやく自分の体が今、自分の部屋にいることを思い出した。

窓を少しだけ開けると、川の方角から夜風が入ってきた。四月の夜風は、昼間とは違うにおいがする。水と、まだ濡れた土と、遠くの街路樹の若葉の気配。槙はそれをしばらく吸い込んでから、静かに窓を閉めた。

スマートフォンを充電器につないだ瞬間、画面に通知のランプがひとつ灯った。

メールが届いていた。

差出人は、十分前に別れたばかりの男だった。

「企画書、明日の午前にお送りします。お返事はお急ぎでなくて構いません。——工藤」

槙は文面を二度読んで、画面を伏せた。

部屋のなかは静かで、時計の秒針の音だけが、はっきり聞こえていた。 �������������������������������������������