第一章「四月の再会」
第1話「四月の名刺」
公開:2026.04.29 ・ 3,197文字
四月の名刺
四月の東京は、桜が散り終えたあとも空気に粉の白さが漂っている。
高橋槙は神保町の路地を歩きながら、コートの前をかるく合わせた。夕方五時の空はまだ橙色を保っていて、古書店の軒先を光が斜めに照らしている。季節がひとつ変わる手前の、独特の空気だった。冬の硬さが抜けて、夏の湿度がまだ来ていない、この数週間だけの、都市の柔らかさ。花びらの記憶が舗道の端に溜まっていて、風が吹くたびに少しずつ動く。もう一週間もすれば、掃き清められて消えてしまうだろう。
静秋社の春の懇親会は、毎年この時期に開かれる。神保町の老舗ホテル、十五階のバンケットルームに、著者、編集者、書店員、ライターが混ざり合い、それぞれの名刺を交換し合う夜だ。槙がフリーランスになって四年目になるが、静秋社との業務委託は続いていた。文芸誌の編集補助と、年に二冊ほどの単行本の担当。仕事そのものは好きだった。
ただし、こういう場に来るたびに思う。フリーランスという立場は、どこかつねに「余所者」に近い。会社員の編集者は名刺の肩書で話しかけてもらえるが、槙には名前しかない。それでも四年続けて来ていると、少しずつ顔見知りが増えていく。それが積み重なって、仕事になる。地道だが、ほかに方法がない。
ホテルのエレベーターに乗り込むとき、槙は浅く息を吐いた。こういう席は、得意ではない。人と話すことは好きだが、大勢の中に放り込まれると、どこに立てばいいか分からなくなる。壁際にいると目立ち、中央にいると疲れる。毎年同じことを考えながら、毎年参加している。
バンケットルームに入ると、すでに七十人ほどが集まっていた。給仕が白ワインとオレンジジュースのグラスを乗せたトレイを持って行き交い、会話の声が折り重なっている。槙はジュースを手に取り、見知った顔を探して部屋をゆっくり見回した。
「槙さん、来てたんですか」
後ろから声がして振り返ると、担当作家の葉山涼太が立っていた。グレーのシャツに黒のパンツ。無精髭がいつもより少し長い。
「先生こそ、こういう場は苦手じゃないですか」
「苦手だよ。でも静秋社の担当に、顔を出しておかないと困るって言われて」葉山はそう言って、手のワインを一口飲んだ。「槙さんも毎年来てるんですね」
「仕事がなくなると困りますから」
葉山は苦笑した。それから、少し真顔に戻って言った。「新刊、読んでくれた人に届いてるみたいで」
「それが一番大事ですよね」
槙は本心からそう言った。葉山の書く小説は、派手さがない。けれど読み終えたあと、しばらく自分の部屋の空気が変わったような気がする。そういう本の編集ができていることを、槙はひそかに誇りに思っていた。
しばらく葉山と話してから、槙は軽く会釈して人波の奥へ進んだ。時刻を確認すると、まだ一時間ある。グラスのオレンジジュースは甘すぎて、半分も飲めていなかった。
窓際のテーブルに寄り、外を見た。神保町の街灯が点き始めていた。路地の向こうに古書店の看板が見える。槙がこの街を好きなのは、本のにおいが染み込んでいるからだ。雨が降ると特に強くなる。紙と黴と、古い時間のにおい。窓ガラスは冷えていて、指先でそっと触れると、うっすら結露していた。
フリーランスになった年にこの街へ越してきた。神保町の古い雑居ビルの、四畳半の事務所を月三万で借りた。家賃が払えるか毎月不安だったが、本屋の密度だけは東京で一番だと思っていたので、それだけで決めた。今は少し広い部屋に移り、アシスタントに外注することもある。それなりに、やってきた。
周は今どこで働いているのだろう、とふと思った。すぐに打ち消した。知らなくていい。知る必要もなかった。
「失礼します」
背後で声がした。
振り返ったとき、槙の視線がひとりの男の顔にぶつかった。
一瞬、呼吸が止まった。
細身の体躯。短く刈り込んだ黒髪。眼鏡の奥の、静かな目。仕事中は表情が消える、という言い方が当てはまる顔。十年前から、そうだった。
工藤周が、そこにいた。
「——高橋さん?」
周も、気づいた瞬間に表情がわずかに固まった。そしてすぐに、平静に戻った。さすがだと思う。昔からそういう人だった。感情がないのではなく、見せない。その違いを槙は、付き合っていた頃に何度も考えた。結局、答えは出なかった。別れてからも、たまにその問いを思い出した。
「工藤さん」
槙の声は、自分でも驚くくらい落ち着いて出た。
「群青書林でいらっしゃいましたよね。こちらに来られるとは」
「静秋社さんとは以前から繋がりがありまして。今年から懇親会にもお声がけいただいて」
「そうですか」
形式的な返事をしながら、槙は名刺入れを取り出した。名刺を交換するのが自然な流れだった。差し出しながら、指先がかすかに強張っているのを感じた。周の名刺を受け取るとき、互いの指先が触れるかどうかの距離に、一瞬なった。触れなかった。
名刺には「群青書林 文芸第二編集部 副編集長 工藤周」とあった。
「副編集長になられたんですね」
「去年から」
「それはすごいですね」
「高橋さんはフリーになったと聞いていました」
「四年前から」
短い言葉が往来した。声の間隔だけが自然で、それ以外は何もかもぎこちない。槙は平静を装って名刺を名刺入れに収め、グラスを手に持ち替えた。
「『季刊・うしろむき』でお名前を見ることがありますよ」と周が続けた。
「ご存知でしたか」
「業界誌は一応、目を通していますので」
「葉山涼太さんの担当をされているんですよね」
「そうです。もう三年になります」
「著者紹介でお名前を拝見しました。あの方の文章、好きなんです」
「私も」
短い返事になった。短い返事しか出てこなかった。こういうとき、槙はいつも話題を変える癖がある。
「今夜はどなたかとご一緒ですか」
「一人で来ました。妻は今夜、別の仕事があって」
妻、という言葉が、さりげなく置かれた。
槙はそれを聞いて、自分の頬が少し熱を持ったことに気づいた。おかしい、と思った。熱くなる理由が分からない。十年前のことだ。もうとっくに、終わったことのはずだった。終わらせたのは自分たちで、「お互いの夢が遠すぎた」とお互いに納得して、それで幕が引かれた。
「そうですか」と槙は言った。
周がすこし間を置いてから、言った。「実は、一度お声がけしたいと思っていた企画があるんです」
「企画、ですか」
「ええ。静秋社さんの書き手と、群青書林のプロジェクトで、一冊作りたいものがあって。担当編集を探しているんです。高橋さんの仕事ぶりを、何人かから聞いていまして」
「——それは、ありがたいお話ですね」
槙は返事をしながら、頭の別の部分でまったく違うことを考えていた。なぜ今夜、この場所で、この人がいるのか。十年間、一度も顔を合わせなかった。互いの名前を出さないように、互いの仕事の話題を避けるように、自然とそういう距離が保たれていた。それが今夜、こうして名刺を交わした。仕事の話、と槙は自分に言い聞かせた。それだけのことだ。
「せっかくですから、今夜は少しお話しできたらと思っています」
周の言い方は静かだった。圧がなく、強制感もなく、ただ事実を述べるように。槙は微笑んだ。微笑むことで、頬の熱を誤魔化した。
「ええ、ぜひ」
バンケットルームの喧騒は変わらず続いていた。給仕のトレイが脇を通り過ぎた。窓の外では街灯がひとつ増えた。
しばらくして、バンケットルームの奥でスピーチが始まる声がした。人波がそちらに向いていく。周も軽く会釈して、人混みの中に戻っていった。槙はしばらく、窓際に立ったまま動かなかった。
手の中の名刺を、もう一度だけ見た。「群青書林 副編集長 工藤周」。十年前とは違う肩書の、けれど同じ声の人。妻がいると言った。また会う約束をした。
頬の熱は、まだ少しだけ残っていた。理由が分からないまま、残っていた。
窓の外では、神保町の夜が、静かに深くなっていた。 �������������������������������������������