NOVLUM

記憶配達人

第二章「五年前の同僚」

第17話「緑が点く」

公開:2026.08.21 ・ 3,029文字

緑が点く

赤が返ると知っている門を、玲は自分から通ることに決めた。

理由は一つだった。首の検出器がいつ公社に読まれるかを、他人の都合で決められたくない。明日でも来週でもいいなら、こちらの選んだ時刻に、こちらの選んだ荷で通る。十七年、玲は荷の到着時刻を自分で決めてきた人間だ。

ただし、上着の内の四つは、連れていけない。


月極の隅に、使われていない消火栓の箱があった。

赤い鉄の扉は蝶番が錆で膨れ、引くと短く鳴いた。中のホースは布が朽ちて、巻いた形のまま固まっている。奥の隅に、古い蜂の巣の抜け殻が、灰色の紙のように貼りついていた。何年も、誰も開けていない箱だ。

玲は、三本のカートリッジを、車載の工具袋にあったビニールで包んだ。時計だけは、包む前に一度、手のひらに残した。潮で硬く縮んだ革のベルトが、指の節に当たる。この物は波形ではない。運ばれてきたのではなく、置いていかれたものだ。それでも、置いていった側の手つきを、玲の指はもう覚えてしまっている。玲は、時計を三本の上へ並べ、袋の口をもう一枚のビニールで二重にした。ホースの輪の内側へ、腕を肘まで差し入れて押し込む。指先が埃の層を掘り、乾いた匂いが立った。扉を戻し、掛け金を下ろす。それだけで、五年ぶんの荷造りと一夜ぶんの死人の声が、錆の裏に収まってしまった。

配達人は、荷を置いていかない。玲は、その原則を、今朝二つ目に破った。

一日だ、と玲は誰にも言わずに決めた。一日で戻る。


城南支所の検問は、片側二車線ぶんの幅に、灰色のアーチが一つ架かっているだけの造りだ。遮断機も、番所の窓も無い。アーチの内側に読取子が並び、路面には速度を落とさせるための段差が二本入っている。配達人の首の検出器は、その四秒のあいだに読み出される。

十七年、玲はそのアーチを、通り道としか思っていなかった。朝に一度、夕に一度。緑をくぐって荷を積み、緑をくぐって出る。門は自分を見ていない——そう思えたのは、返事がいつも同じだったからだ。返事が同じだと、人は問いのほうを忘れる。

玲は、一つ目の段差で速度を落とした。

口の中が乾いていた。ゆうべの潮のせいではない。舌が上顎に貼りつき、飲み下すものが無かった。耳が、水に入ったときのように一枚詰まって、電動車の低い唸りが遠くなる。ハンドルを握った手のひらだけが、湿っていた。

赤が点けば、アーチはその場で記録を上げ、支所の当直へ通報が回る。玲は、その手順を体で知っている。何年か前、赤を出した若い配達人を、通報の側から見たことがあった。あの男は、車を降りて腕を取られるまで、自分の首が何を返したのかを理解していなかった。理解する前に、身元のほうが先に決まる。それが、この門の速さだった。

二つ目の段差。前輪が乗り、車体が軽く跳ねた。

アーチの天井の表示灯が、点いた。

緑だった。

玲は、アクセルから足を離さなかった。離せば、そこで止まる。止まれば、止まった理由を誰かに説明しなければならない。車は、緑の下を四秒で抜けた。抜けきってから、玲は、自分の呼吸が止まっていたことに気づいた。


車庫の定位置に入れ、玲はしばらく運転席にいた。

天井の低い車庫には、公社の箱型が十数台、鼻先を揃えて並んでいる。ゴムと、充電器の熱の匂いがした。十七年、朝ごとに嗅いできた匂いだ。何も変わっていない。変わっていないことが、今日は落ち着かなかった。

玲はグローブボックスから照合機を出し、端子を首の左に当てた。

十秒。後頭部の芯が、わずかに温くなる。

赤だった。表示の下の列に、常在パターン数、02。数字は、朝と同じ場所に、同じ形で並んでいた。

玲の体は、赤を返している。門は、緑を返した。

どちらかが、嘘をついている。

車を降りると、壁際の配車板に、今日の便が出ていた。

特級の欄に、玲の番号が、いつもの位置にある。午後、二件。都心の合法配達だ。医療用の記憶リハビリと、遺言の受け渡し。荷の重さも、道の混み方も、玲には目を通す前から分かる種類の便だった。

止められていない。それどころか、今日も荷を任されている。赤を体に抱えた配達人に、公社は、他人の遺言を運ばせようとしていた。


技術管理部第一課は、支所の三階の、日の当たらない側にあった。

篠塚和夫は、春に会ったときと同じ、白い長袖シャツのボタンを最上段まで留めた格好で座っていた。テーブルの上は、また、整えた空白だった。玲が座る前から、そういう準備をしている人間の癖だ。

「自分の通過記録を見たい」玲は言った。「本人請求で、出るはずだ」

「出ます」篠塚は端末を玲の側へ半分回した。手の速さに、迷いが無かった。訊き返さない人間は、訊き返す必要の無いところまで、もう考えている。

画面に、今朝の一行があった。

〇八時四十一分、城南、通過、緑。その右の欄に、常在パターン数——00 と出ている。

玲は、上着の内の照合機の重さを、確かめ直さなかった。二つの数字を並べてやる必要は、もう無い。

「補正が、一件入っています」篠塚が言った。玲が訊く前だった。

「補正」

「読み出しの値を、あとから書き換えた記録です。機器の故障や、校正のずれを直すために使う手続きです」篠塚の指が、行の端の小さな印を示した。「正規の補正なら、承認者の欄に、必ず職員番号が入ります」

その欄は、空だった。

「空の補正は」玲は言った。

「制度の上では、ありません」篠塚の眼鏡の奥で、焦点が一ミリだけ奥へ引いた。春にも見た動きだった。「ですから私は、これを補正とは呼びません」

呼ばない、と篠塚は言った。呼ばないが、消してもいない。この男は四月にも、消えた一行の話を、消えたままの形で玲の前に置いた。見せることと、味方であることは、別のことだ。玲は、そこを混ぜないようにした。

「この操作ができる端末は、何台ある」

「支所ごとに一台。本部の登録課に、二台」篠塚は、指を折らずに答えた。数えて答える人間ではない。もう数えてある人間の答え方だった。「合わせて十九です」

十九。玲は、その数を、頭の中に置いた。十九台の端末を触れる人間の数は、それより多い。だが、無限ではない。門の外の話ではなく、門の内側の、名簿に載る人数の話になった。

「時刻は」

篠塚は、行をひとつ開いた。〇八時二十九分。

玲は、その数字を数えた。門を抜ける、十二分前だ。そして——配送車の運転席で自分の首に端子を当てた、あの十秒の、すぐあとだった。

窓の外で、荷を積んだ車が一台、アーチの下を抜けていった。緑が四秒だけ点って、消えた。この支所の配達人が、今日も何十人と、あの下を通る。全員が、緑を見ている。緑を見た記憶は、誰にも残らない。

「結城さん」篠塚は端末を戻しながら、目だけを上げた。「この記録が緑である限り、あなたは、どの門も通れます」

「通れる」

「通れるうちは、誰にも止められません」篠塚は、そこで一度、言葉を切った。「止める必要が、まだ無いということです」

玲は、答えなかった。答える必要のあることを、この男は言っていない。


廊下へ出ると、蛍光灯の一本が、端のほうで細かく震えていた。

玲の赤を、玲より先に知った手がある。知って、公社の記録を緑に塗り替えた手だ。舟の上の男は、玲の免許番号を、桁ひとつ落とさずに読み上げた。あの数字も、外から盗るには硬すぎた。

守られている、とは思わなかった。

赤を消せる手は、いつでも赤を戻せる。玲の首の色は、今朝から、玲のものではなくなっていた。