第二章「五年前の同僚」
第16話「赤を返す」
公開:2026.08.14 ・ 2,871文字
赤を返す
歩道橋を渡りきると、そこはもう、ただの朝だった。
自転車が玲の横を追い抜いていった。制服の学生が片手で端末を見たまま、危なげなく坂を下っていく。角のパン屋の換気口から、焼けた小麦の匂いが道の低いところに溜まっていた。水路の下で起きたことは、この道のどこにも残っていない。玲の靴だけが、一歩ごとに水を含んだ音を立てていた。
「結城さん」
七尾が、半歩遅れてついてくる。泥で汚れた靴のまま、若い刑事はまだ帰る素振りを見せなかった。玲は歩調を落とさずに、上着の内の重さを確かめた。三本と、一つ。乾きはじめた樹脂が、体温で少しずつ温くなっていく。
「課へ戻れ」玲は言った。「泥のまま行けば、誰かに何か訊かれる。着替えてから入れ」
「訊かれても、答えることが無いんです」七尾は言った。「宛名のない荷物が三件。追ってるのは私だけ。そこへ、干潟で会った民間人の名前を足しても、調書は一行も伸びません」
民間人、と七尾は言った。玲を、そう呼んだのだ。皮肉ではなかった。玲はもう公社の人間で、警察の側にはいない。線を、正しく引かれた。それが、いま七尾にできる、いちばん親切な引き方だった。
信号で、二人は止まった。
車道を、朝の配送車が続けて三台通っていった。二台目は公社の車だった。屋根の低い電動の箱型で、側面に灰色の環章が入っている。玲が十七年、運転席にいた側の車だ。
「一つだけ、訊きます」七尾は前を向いたまま言った。「あの船の人、最後にあなたに何か言いました。私にも聞こえてました。声だけが。中身が、聞き取れなかった」
「聞かないほうがいい」
「それ、五年前も言いましたか」
玲は、答えなかった。言った覚えは無い。だが、言わなかったことのほうが、たぶん多かった。相沢には、何も訊かなかった。七尾には、何も言わずに辞めた。同じ性質の沈黙を、玲は五年ごとに繰り返している。
信号が青になった。七尾は動かなかった。
「調べます」と、若い刑事は言った。「あなたが答えなくても。公社の免許登録は、認知犯罪課からなら照会できます。特級の、二三の四一。あの人、桁を間違えませんでしたよね」
玲の脈が、首のポートの下で一度、強く打った。
そこに気づいたのか、と思った。玲自身、あの平坦な声が免許番号を諳んじたとき、いちばん深いところが冷えた。公社の免許番号は、公開情報ではない。配達人本人と、公社の登録課と、検問の照会端末しか持っていない数字だ。それを、灯りを消した舟の上の人間が、桁を一つも落とさずに読み上げた。
外から盗ったのなら、まだよかった。内側から渡されたのなら、話が変わる。
「照会するな」玲は言った。
「なぜです」
「照会の記録が残る。おまえの端末で、俺の番号を引いた記録が」玲は、若い刑事の目を初めてまっすぐ見た。「それを見られて困るのは、俺じゃない。おまえだ」
七尾の唇が、何か言いかけて、止まった。理解の速い人間の止まり方だった。玲はその一瞬に背を向け、横断歩道を渡りきった。振り返らなかった。振り返れば、あの若い刑事は、また半歩ついてくる。
配送車は、二本裏の月極に置いてあった。
玲は運転席に乗り込み、扉を閉めた。外の音が、一枚薄くなる。フロントガラスの向こうで、朝の光が、隣のビルの窓を順に灯していった。玲は暖房を入れず、濡れた靴のまま、しばらく座っていた。
上着の内から、三本のカートリッジと時計を出し、助手席に並べた。黒い筒が三本。表面の白い曇りが、それぞれ違う年数を示している。並べてみると、一本ずつ、削られた面の角度が微妙に違った。同じ手が、違う日に、違う焦りで削ったのだ。
玲は、グローブボックスを開けた。
中には、業務用の携帯照合機が入っている。手のひらに乗る、角の丸い灰色の機械だ。配達人が検問の前に自分で一度、体内検出器を読み出しておくための道具だった。首のポートに端子を当てれば、埋まっている検出器が、その場で体内を走査する。走査は十秒。結果は、緑か、赤か。
十七年、玲はこれを日に二度から三度、使ってきた。歯を磨くのと同じ回数だ。緑が返るのが当たり前すぎて、緑を見た記憶が一つも残っていない。
いま、玲はそれを手に持ったまま、動かせずにいた。
読まなければ、まだ、緑かもしれない。
その考えが頭を通ったことに、玲は自分で驚いた。十七年、荷を運ぶ側にいた人間の考え方ではなかった。荷を隠す側の考え方だ。境目は、思ったより静かに越えられる。
玲は、端子を首の左に当てた。
冷たい金属が、皮膚の下の器械を探り当てる感触があった。
走査がはじまると、後頭部の芯のあたりが、わずかに温くなる。熱ではない。血の流れ方が変わったときに感じる、あの重さに近い。玲は目を閉じなかった。閉じれば、また冬の海が出てくる。頬の左だけを削る風と、冷めた缶コーヒーの甘さが。他人の舌の記憶は、いま玲の中で、目を閉じるたびに順番を待っている。
照合機が、短く鳴った。
十秒。玲は、手元を見た。
赤だった。
驚きは、無かった。舟の上の男が、正確に予告していった通りだ。それでも、指の腹が、機械の縁を強く押さえていた。押さえていることに、玲は数秒遅れて気づいた。
赤いランプの下に、小さな英数の列が並んでいる。走査の詳細だった。配達人でも、ここまで読む者は少ない。緑が返れば読む必要が無いからだ。玲は十七年で、この列を三度しか読んだことが無かった。三度とも、他人の機械だった。
一行目は、機体番号。二行目は、走査時刻。三行目に、常在パターン数、と書いてある。
体内に居座っている、外来の記憶波形の本数だ。合法の配達で一時的に通過する荷は、ここには載らない。載るのは、脳に定着してしまったものだけ。読んでしまった記憶。もう抜けない記憶。
玲は、そこに 01 と出ることを、疑っていなかった。
相沢の一本を、玲は自分の脳で再生した。冬の海を、他人の目で見た。定着したのは、それだけのはずだった。
数字は、02 だった。
玲は、照合機を目の高さまで持ち上げた。表示は変わらない。走査時刻の秒だけが、機械の中で進んでいく。
読み違えではなかった。ゼロと、二。この機械は、玲の脳の中に、玲のものではない記憶波形が二本、居座っていると言っている。
一本は、わかっている。冬の海だ。防波堤で時計を確かめる、あの速い手つきだ。
玲は、もう一本の心当たりを探した。十七年ぶんの配達を、頭の中で逆にたどった。開けた荷は無い。読んだ荷は、昨日の一本だけだ。事故で漏れたなら、体は必ず拒絶反応を出す。解離、めまい、時間の感覚の抜け落ち。そのどれも、玲には出ていない。出ていないということは、その一本が、玲の人格と、ほとんど差の無い波形だということだった。
自分と、近すぎるもの。
玲は、フロントガラスの外を見た。隣のビルの窓が、上から順に朝の色を返している。ごく普通の朝だった。この朝も、昨日も、五年前の夏も、玲は自分の記憶として持っている。持っていると、思っている。
一本は、相沢のものだ。ならば、もう一本は――いつから、俺の中で、俺の顔をしている。