NOVLUM

記憶配達人

第一章「混入」

第6話「発信者」

公開:2026.06.05 ・ 2,875文字

発信者

死者は、記憶を持てない。少なくとも、合法の記憶配達網では、そうなっていた。

品川の自室は、深夜近くになると、窓の外の音が一種類ずつ減っていく。首都高の低周波が先に消え、次いで隣のビルの換気扇が止まり、最後に残るのは京浜運河から来る水の気配だけになる。玲は、その静けさを利用して、よく考えごとをした。使える静けさと、重さだけのある静けさは、別物だった。今夜は後者だった。

古い機械の表示窓に、二つの欄が、並んだままでいる。

origin。

relay。

relay欄の宛先は、玲が今夜中にこの機械で辿れるものではなかった。文字列の形式が、NMAの内部規格にも、警視庁の照合データベースにも、一致しない。少なくとも玲の知る表から外れている。外れているということは、既存の配達網の設計に乗っていない、ということだ。設計に触れられるのは、設計そのものを書いた側の人間に限られる。その結論は、昨日も、今日も変わらない。

夕方から何度か、その文字列を手帳の余白に書き写した。書くたびに形は変わらなかった。変わらないものを書き写す行為に意味はないと知りつつ、手を動かすことで、頭が別のことを考え始める。十七年の配達で身についた、実用的な癖だった。荷台に積んだカートリッジの重さを数えながら、別の問題を解く。体を動かすと、思考は内側に潜る。内側に潜ったものが、表に出てくるのを待つ。

origin欄は、違う顔をしていた。

画面に出た瞬間から、見た覚えのある形式だという予感があった。確信ではなく、皮膚の下を走る細い線のような、名前のつく前の気づきだった。玲はそれを、昨夜の段階では「配達台帳のIDと似ている」と片付けようとした。配達台帳のIDは、先頭に「M」がつく。originの番号の先頭には、別の文字がある。

Kだった。

Kで始まるIDを玲が大量に扱ったのは、配達人になってからではなかった。

警視庁にいた頃、内部の人物管理データベースは、Kで始まる固有番号を各職員に割り振っていた。K番号は、在籍中に付与され、退職後も凍結されて残る。死亡した場合は「死亡処理」というフラグが立ったまま、無期限に保管される規則だった。少なくとも、玲が在籍していた十年のあいだは、そうだった。

玲は携帯を持ち上げ、しばらく、スリープ状態のまま握っていた。


年賀状だけで繋がっている男に、今夜、二度目の用件を持ち込む。それが何を意味するかは、分かっていた。一度借りた人間に二度借りることは、一度借りた金に利息がつくより、静かに、深く、関係を変える。玲はその変化を、五年前から、できる限り作らないようにしてきた。作らない理由のひとつは、変化の果てに何が待つかを、すでに一度、見ているからだった。

それでも、originの先頭の文字は、Kだった。

玲は発信した。三コールで出た。

「また俺か」と男は言った。

「すまない」

「夜中に何だ」

「一件だけ確認してほしい。K番号だ」

間があった。キーボードを打つ音ではなく、椅子を引く音が聞こえた。立ち上がったのか、別の部屋に移ったのか、電話越しでは分からない。男の声が、少しだけ低くなった。

「送れ」

玲は表示窓の文字列を、一字ずつ、口頭で告げた。Kで始まる、十一桁。男は復唱しなかった。聞いている人間の沈黙と、聞いていない人間の沈黙は、少し違う。男は聞いていた。

「一時間くれ」

「ある」

通話が切れた。


玲は冷水を一杯飲んで、椅子に戻った。グラスの底に水が薄く残り、指の温度がガラス越しに伝わっていくのを、しばらく感じていた。冷たいものを持っていると、少しだけ、思考の速度が落ちる。速度が落ちた方が、抜けが減る。

座りながら、originの番号を、表示窓ではなく、自分の頭の中へ移した。K番号は、警視庁の中でも、課ごとに枝番の規則が違っていた。認知犯罪課には、六桁目から八桁目にかけて特別な枝番がついていた。三桁、ゼロが並ぶ。課内の正規職員だけに与えられる形式だった。

originの番号の六桁目、七桁目、八桁目。

玲は三度、数えた。三度とも、同じ結果が出た。

三つ、並んでいた。

部屋の灯りを一段落とした。落とした後のほうが、表示窓の赤がはっきり見えた。赤いLEDは、十年前の設計で、蓋を開けていると常に点灯する仕組みになっている。十年間、この色と一緒にいたことになる、と玲は今夜、はじめて意識した。意識したこと自体が、今夜の自分の状態を、少し、説明している気がした。

電話が鳴ったのは、それから四十三分後だった。玲は、窓の外を見るでもなく、天井を見るでもなく、ただ古い機械の赤を見ていた。見ながら、蒼子のことを、一度だけ思った。NMAが彼女をどうしたのか、今夜の玲には、まだ、知る方法がない。知る方法がないことを、ゆうべから何度か確かめている。確かめるたびに、同じ結論が出る。何も変わらない。変わらないことを確かめる行為は、安心ではなく、ただの繰り返しだった。

「結城」

「ああ」

「K番号は、五年前に死亡処理が入っている」

玲の背中が、椅子の背もたれに触れた。触れたことに、少し後から気づいた。自分から預けたのではなく、背中のほうが、椅子を探したのだった。

「所属は」

「認知犯罪課だ。あんたの元の部署だ」

玲は、一拍置いた。

「名前は」

「そこは無理だ。名前を引いたら、別のところが反応する。俺が今夜持てる情報は、ここまでだ」

男の声は、引き止める声だった。怖がる声ではなかった。玲には、その違いが、耳だけで分かった。

「わかった。また借りる」

「おい」

「なんだ」

「あんたが辞めた理由、俺はずっと訊かなかったんだが」

玲は、少し間を置いた。

「五年経ったからって、訊けるようになるわけじゃない」

「そういう答えが来ると思ってた。切るぞ」

通話が終わった。


Kで始まる番号。認知犯罪課の正規職員。五年前の死亡処理。

波の音という記憶の発信者は、五年前に死んだ、玲の元部署の誰かだった。

その可能性を外す根拠を、玲は三つ考えた。三つ考え終えたとき、三つとも、根拠が薄かった。

窓の外で、京浜運河の水が、見えない音を立てていた。深夜の空気は、窓ガラス越しでも、重かった。嗅ぐものは何もない夜のはずが、古い機械の樹脂の匂いだけが、部屋の底に薄く漂っている。十年、嗅ぎ続けた匂いだった。今夜は、初めて嗅ぐように鼻に来た。

玲の知るかぎり、認知犯罪課で五年前に死亡処理が入った人間は、自分が直接知っているだけで、一人だった。一人だけだった。その一人の名前を、玲は今夜、口に出さなかった。出せば、それはこの部屋の空気の一部になる。空気の一部になったものは、翌朝もそこに残る。残ってほしくなかった。まだ、確かめる前に。

携帯をテーブルに伏せた。伏せ方が、少しだけ、いつもと違った。音を立てなかった。

五年前の、あの夜も、同じように携帯をテーブルに伏せた。あのときは音がした。今夜はしなかった。その違いが、今夜の玲にとって何を意味するのかは、まだ、言葉にならなかった。

言葉にならないまま、京浜運河の水の気配だけが、部屋の中に残った。