NOVLUM

星譜の声

第一章「沈黙の聖堂」

第8話「問わぬ朝」

公開:2026.06.15 ・ 3,490文字

問わぬ朝

朝の鐘の音が、修道院の石壁の上を、いつもより、ひと節だけ、低く転がっていった。

ライラは、寝床の細い窓のほうへ、目を、開けた。 夜のあいだに、自分が、本当に眠ったのかどうか、彼女には、わからなかった。 ただ、肩のあたりに、ひとつだけ、誰かの掌の温度の名残が、薄く、残っていた。 昨夜、エルマの右手が、置かれていた場所だった。

毛織の上着の袖の中に、ライラは、右手を、滑り込ませた。 袖の奥のいちばん深いところに、石片は、いつもの石の冷たさで、戻っていた。 朝の冷たさだった。誰かの呼吸の温度は、もう、そこには、なかった。 それでも、彼女が、指の腹で、その表面を、ひと撫でしただけで—— 紫がかった藍が、ほんの細く、ひと節だけ、石の上に、滲んで、消えた。

——昨夜、視たもの。

朝の祈祷の鐘が、二度目に、鳴った。 ライラは、寝床の縁から、足を、降ろした。 裸足の足の裏が、夜と同じ石の冷たさを、踏んだ。それでも、今朝の石は、もう、何も覚えていない、という顔をしていた。

回廊を、いつもの順番で、ライラは、歩いた。 両側を、シスターたちが、ひとり、またひとり、追い越していった。 誰も、ライラに、目を、向けなかった。 それは、昨夜の前と、まったく、同じだった。

聖堂の入り口で、ライラは、一度、足を止めた。 止めて、自分の肩の温度を、もう一度、確かめた。 温度の名残は、もう、ほとんど、消えていた。それでも、その消える直前のかたちは、ライラの修道服の襟の内側に、確かに、まだ、残っていた。

祭壇のほうから、エルマの声が、聞こえてきた。 朝の祈祷を、いつもの低さで、唱える声だった。 昨夜の聖堂の冷たさは、その声の中には、もう、ひと節も、残っていなかった。 ライラは、その声に、ほんの少しだけ、安堵した自分のことを、わずかに、咎めた。

長椅子の前列、いつもの場所に、ライラは、座った。 両手を、膝の上で、組んだ。 組んだ右手の親指の腹は、無意識に、左手の親指の付け根の、ある一点を、押していた。 そこは、昨夜、踊り場の壁に、強く押し当てた指の、ちょうど芯になった場所だった。 朝の光のなかで、その一点だけ、まだ、夜の壁の冷たさを、覚えていた。

「ライラ・ノクト」

声が、長椅子の通路の脇から、降ってきた。 シスター・モランの声だった。 モランは、両手を、長い袖の中で重ねて、長椅子の列の脇に、立っていた。 顔は、笑ってもいない。咎めてもいない。ただ、朝の修道院のなかの、いちばん平らな場所に、彼女は、立っていた。

「祈祷のあと、写字室へ、来てください」

ライラの胸が、ひとつ、強く打った。 打った鼓動が、袖の奥の石片の表面に、はっきりと、伝わるのが、視えた。

「……はい」

返事は、できるだけ、短く、出した。それ以上、長くは、出せなかった。

モランは、それきり、何も言わずに、長椅子の列の脇を、ゆっくりと、奥へ歩いていった。 歩いていく背中の、左の肩のあたりが、朝の光のなかで、ひと節、薄く、揺れた。 モランの肩掛けの裾が、揺れたのか、それとも——彼女の肩のあたりの空気が、揺れたのか。 ライラは、それを、視ようとした。 視る前に、エルマの祈祷の声が、ふっと、ひと節だけ、止まった。

聖堂の天井の高いところで、止まった声が、長椅子の列の、いちばん奥のあたりに、薄く、降りた。 ライラは、首を、ほんの少しだけ、横に、向けた。 向けた先で、長椅子のいちばん奥に、ニナが、座っていた。

ニナは、寝起きのままの髪を、すこし、撫でつけていた。 膝の上で、両手を、ぎゅっと、握っていた。 握った両手の指の関節が、夜の石より、白かった。 ニナの目は、まっすぐ、祭壇のほうへ、向けられていた。それでも、その目の奥には、夜の長椅子の影で見せた、あの薄い嘘の練習のかたちが、まだ、残っていた。

ニナは、ライラのほうを、見なかった。 見ない、ということが、いまのニナの、いちばん精いっぱいの、約束のかたちだった。

エルマの祈祷の声が、再び、続いた。 続いた声の中には、ほんの細い、しかし、確かな、半節の遅れが、混じっていた。 ライラの耳の奥が、その遅れを、ひと節、聴き取った。

——昨夜の私たちの音を、エルマも、聴いている。

確信、というほどの強さでは、なかった。それでも、それは、ライラの胸の、いちばん深い場所に、夜の踊り場の石片と、同じ温度で、収まった。

祈祷が、終わった。 シスターたちが、ひとり、またひとり、長椅子から、立ち上がった。 ライラも、立ち上がった。立ち上がったとき、肩のあたりの夜の温度は、もう、跡形もなく、消えていた。

ニナは、長椅子の奥の影から、ひと足、踏み出しかけて——もう一度、その足を、戻した。 戻した足の裏が、聖堂の石の上で、ちいさく、ひと節、震えた。

——いま、ニナを、見ない。

ライラは、自分に、そう、言いきかせた。 ニナのほうへ、目をやれば、エルマの「夜の許し」は、たぶん、朝の光の中で、もう、引き上げられてしまう。 ライラは、聖堂の出口のほうへ、歩きはじめた。 歩きながら、修道服の袖の中の石片を、左手で、もう一度、確かめた。

写字室への回廊は、朝の光の長い影を、いつもよりも、ふた節、長く、引いていた。 影のいちばん長く伸びた場所で、ライラは、足を、止めた。 止めたのは、回廊の柱の脇に、エルマの肩掛けの裾が、ほんの少しだけ、覗いていたからだった。

エルマは、柱の影の中で、ひとり、立っていた。 ライラに、気づくでも、気づかぬふりをするでもなく、 左手の中で、ゆっくりと、銀の珠繰りを、ひと巡り、繰っていた。

朝の光は、銀の珠繰りの、いちばん古い珠の表面に、まっすぐ、当たっていた。 当たった光の縁のあたりから—— 夜と同じ、紫がかった藍が、ほんの細く、ひと節だけ、立ちのぼった。

ライラの息が、止まった。 止まった息に合わせて、藍も、止まった。 止まった藍の芯のところで、ライラは、初めて、視た。 珠の表面の、いちばん古い場所に、薄く、刻まれた、ちいさな文字を。

——名前、だった。 ライラのものでも、ニナのものでもない、別の、誰かの名前。 その四つの音は、昨夜、踊り場の半語の声が、最後まで唱えた、あの四つ目までの音と、確かに、重なっていた。

エルマは、ふっと、目を上げた。 柱の影のなかで、彼女の目が、ライラの目を、まっすぐに、捉えた。

「写字室は、こちらではありませんよ、ライラ」

エルマの声は、いつもと、同じ低さだった。 ただ、その低さの中の、いちばん奥の場所に、ひと節だけ、昨夜、聖堂の蝋燭の前で聞いた、あの「咎めない」低さが、薄く、混じっていた。

ライラの右手は、袖の中で、もう一度、強く、石片の表面を、押さえた。 押さえた指の腹に、ほんの細い震えが、走った。 震えは、肘のあたりまで、ひと節だけ、伸びて、そこで、止まった。 石片の温度は、朝の冷たさを、すでに、超えていた。 夜の踊り場の温度に、もう、戻りはじめていた。

「……はい、シスター」

ライラの声は、自分でも、驚くほど、平らに、出た。 出た平らさのほうが、彼女には、こわかった。

エルマは、わずかに、うなずいた。 うなずいた拍子に、銀の珠繰りの、いちばん古い珠が、彼女の左手の指のあいだで、ひと節、向きを、変えた。 紫がかった藍の細い線が、向きを変えた珠の表面から、ほんの一節だけ、外へ、伸びた。 伸びた線の先は、ライラの修道服の袖の——ちょうど石片のある場所のあたりまで、届きかけて、 エルマが、息を、ひとつ、吸った瞬間に、ふっと、引いた。

ライラは、回廊の角を、写字室のほうへ、ひとつ、足を、進めた。 進めた足の裏で、柱の影の中の銀の珠繰りの、いちばん古い名前が、もう一度、紫がかった藍を、ひと節だけ、震わせた。

エルマは、何も、言わなかった。 ライラも、振り返らなかった。

写字室の扉の手前で、ライラは、自分の右手を、もう一度、開いた。 掌のいちばん芯のところに、夜の踊り場の冷たさが、まだ、残っていた。 その冷たさの上に、いま、エルマの古い珠の名前が、ひとつ、薄く、重なった。

——その名前を、わたしは、知っている。

確信ではなかった。それでも、ライラの記憶のいちばん古い場所のほうから、その名前は、もう、ひと節、確かに、応えはじめていた。

扉に、手をかける前に、ライラは、もう一度、自分の喉のあたりに、片手を、当てた。 喉の奥に、昨夜の半語の声の、四つ目の音が、まだ、薄く、震えていた。

その震えを、ライラは、今朝は、飲み込まなかった。 飲み込まずに、彼女は、樫の扉を、ゆっくりと、引いた。