第一章「仮面の日々」
第13話「抜けぬ刃」
公開:2026.07.28 ・ 2,758文字
夜明け前の空は、まだ藍の色を残していた。
オルドーの小屋は、学院から半刻ほど歩いた丘の裏手にある。隠棲という言葉がそのまま形になったような、枯れた住まいだ。夏だというのに、朝の空気はひやりと澄んでいて、木剣を握る掌に心地よかった。
「遅い」
一言。それだけで、稽古が始まる。
片目を布で覆った老騎士は、朝の薄明の中で、丸太のように動かない。俺は構えた。セレナは圏内にいない。だから今の俺に、身体能力向上の恩恵はない。オルドーの下での稽古は、いつもそうだった。
「魔女の傍を離れて振れ。お前の剣が、お前のものかどうか——それは、力を借りていない時にしか分からん」
打ち込む。受け流される。また打ち込む。また流される。半刻が過ぎる頃には、俺の肩は鉛のように重く、呼吸は喉の奥で擦り切れていた。
オルドーは、汗ひとつかいていない。
木剣を下ろした、その時だった。
「——お前」
枯れた声が、ふと低くなった。
「本身を、一度も抜かんな」
心臓が、嫌な音を立てた。
(——来た)
喉の奥が、ひとりでに乾く。
俺の腰には、いつもリベリオがある。布で柄を包み、鞘に納めたまま。稽古でも、訓練でも、俺はこの剣を、一度も抜き放ったことがない。
(落ち着け。考えろ。何と言う。家に伝わる形見だから、抜くのが惜しい——いや、それじゃ弱い。剣士が本身を惜しむなんて、この人が一番嫌う言い訳だ——)
頭の中で言葉が空回りする。
この剣を抜けば、刃が露わになる。装飾の凝った、見る者が見ればただ事でないと分かる、対の武器の片割れ。祖父は言った。この剣のことを知る人間が一人でも増えれば、お前もセレナも危ない、と。だから——抜けない。
だが、オルドーは。
問い詰めては、こなかった。
片目で俺をしばらく見つめたあと、ふっと視線を逸らし、丘の向こうの白み始めた空へ顔を向けた。
「事情は、聞かん」
低い声だった。
「誰にでも、抜けぬ刃の一本くらいある。抜けば終わる何かを、鞘に納めて生きてる奴は、珍しくない」
俺は、息を呑んだ。
この人は——何を、どこまで見ている。
「なら、道は一つだ」オルドーは木剣を肩に担いだ。「抜けぬ刃なら——抜かぬまま強くなれ。鞘の内に納めたまま、それを己の一部にしろ。抜くことでしか振るえん剣など、最初から半分の剣だ」
半分の剣を、丸ごとの剣にしろ。
矛盾した言葉のはずなのに、妙に胸の奥に落ちた。オルドーは時折、こういう顔をする。世界の裏側を一度覗いてきたような、枯れて、澄んだ顔を。
「——今日は、仕舞いだ。帰れ」
俺は一礼して、小屋を出た。腰のリベリオが、いつもより少しだけ、重く感じた。
学院に戻ると、昼の訓練場は、夏の日差しでよく焼けていた。
「よう、ヴェルデン!」
野太い声が飛んでくる。ガレス・ドルングラードだ。赤毛の短髪に、日焼けした肌。土の名家の嫡男のくせに、名家くささが一ミリもない男。
「暇なら一本付き合え。最近、お前とやってねぇと調子が出ねぇんだ」
断る理由もなかった。セレナは圏内にいる。身体は軽い。俺は木剣を取り、ガレスと向かい合った。
打ち合いは、豪快だった。ガレスの一撃は重い。受けるたびに腕の芯まで痺れる。だが俺には向上した身体がある。速度で上回り、懐に飛び込み、木剣の先をガレスの胸元で止めた。
「——一本」
「っ、はえぇな、相変わらず!」
ガレスは悔しがるどころか、豪快に笑った。汗を拭い、木剣を肩に担ぐ。
「けどよ、ヴェルデン。お前——力に頼りすぎだぞ」
俺の手が、一瞬止まった。
「今の、速さで押し切っただろ。魔女の恩恵あってのやつだ。身体が軽いうちは勝てる。けどな——」ガレスは、にっと歯を見せた。「素の技が、薄ぇんだよ。速さを抜きにして見りゃ、お前の剣、意外と危なっかしい」
ぐうの音も出なかった。
今朝、オルドーに言われたばかりだ。力を借りていない時にしか、お前の剣は分からん、と。名家の嫡男と退役の老騎士が、別の場所で、同じ一点を突いてくる。
「……善処する」
「はは、なんだそりゃ!」ガレスは背を叩いてきた。土の名家らしい、岩のような掌だった。「まぁいい。お前が伸びると、俺も張り合いがある。また付き合え」
訓練場の隅に、銀灰色の髪が見えた。
セレナだった。壁に背を預け、腕を組んで、こちらを見ている。いつから見ていたのか。名家モードの仮面は、今は薄い。
「見てたのか」
近づくと、セレナはふいと視線を外した。
「べつに。通りかかっただけ」
相変わらずだ。俺は苦笑して、水を呷った。すると、セレナが小さく言った。
「……あんた、最近、少し変わった」
水を飲む手が、止まった。
「前は、もっと——力まかせで、危なっかしかった。今のは、そうじゃない。受けが、落ち着いてた」
意外だった。セレナが、俺の剣をそんなふうに見ているとは。胸の奥が、妙にくすぐったくなる。
「……お前に褒められると、調子が狂うな」
その瞬間、セレナの頬がほんのり赤くなった——気がした。彼女は慌てて腕を組み直す。
「か、勘違いしないで。褒めてなんかない。ただ、あんたが弱いままだと、わたしが困るってだけ」
「はいはい。承知しましたよ、お嬢様」
「その言い方、やめなさいって言ってるでしょ!」
夏の昼下がりに、いつもの応酬が響く。だが今日の俺は、その言葉の裏に隠れた、ほんの少しの素直さを——ちゃんと拾えた気がしていた。
夕。
稽古帰りの回廊は、茜色に染まっていた。
その光の中に、金髪を後ろに流した男が立っていた。レイナード・ヴァルク。学院首席。隙のない姿勢で、手元の手記に何かを書き留めている。
俺たちに気づくと、レイナードはペンを止めた。
冷たい青い眼が、一瞬、セレナへ向く。正確には——セレナの手にした、アルカナ・コーデックスへ。
「……グランハルト」
短い呼びかけ。それだけだった。
「今日の組手、見ていた。お前の火は」レイナードは、手記を閉じた。「——相変わらず、揺れ方が妙だな」
告げるだけ告げて、レイナードは踵を返した。追及も、詰問もない。ただ事実を置いていくような、静かな足どりで、茜色の回廊を去っていく。
その手の手記に、何が書き留められているのか。
俺には、分かる気がした。あれは——セレナの火の、記録だ。揺れ方。強さ。消え際の癖。一戦ごとに、少しずつ積み上げられていく、偽物の火の証拠。
「……行こう」
セレナの声は、硬かった。仮面の下で、何かを押し殺している。
俺は頷き、並んで歩き出した。腰のリベリオが、夕日に鈍く沈む。
——抜けぬ刃なら、抜かぬまま強くなれ。
オルドーの言葉が、胸の奥で静かに燃えていた。隠し続けること。抜かないこと。それを弱さのままで終わらせないこと。
レイナードの眼が光る限り——俺たちの偽物は、もっと強くならなきゃいけない。本物より、ずっと。
茜色の回廊に、二人の影が、長く伸びていた。