序章「偽物の魔女」
第7話「最初の火」
公開:2026.06.09 ・ 2,853文字
訓練場の朝は、土埃の匂いから始まる。
石畳を均した円形の闘技場に、揃いの訓練着を着た新入生が並んでいた。その中央に立っているのは、教官のエルザだ。小柄な体に、鞭のようにしなる気配を纏っている。
「今日から、止まったままの訓練は終わりだ」
短い声が、よく通った。
「魔女は、的になって突っ立っているわけにはいかない。敵は動く。お前たちも動く。動きながら、魔法を繋げ。——それができて、初めて戦力と呼ぶ」
隣で、セレナの肩がわずかに強張ったのが分かった。
動きながら、魔法を。
俺は、腰の鞘に触れた。中で眠っているリベリオの柄に、掌をそっと重ねる。
——抜けない。
この剣を抜けば、誰かに見られる。刃がマナを呑み込む、あの異様な光景を。だから俺にできるのは、鞘ごと握って、空気の中のマナを細く手繰り寄せることだけだ。立ち止まっていれば、それでもなんとかなる。
でも、走りながらは——。
課題は単純だった。前方に設けられた藁の標的へ移動し、間合いを詰めながら魔法を放つ。パートナーの男は、その露払いとして先行する。
順番が回ってくる。
「行くわよ」
セレナの声は、いつも通り凛としていた。名家モードでもない、ただの、彼女の声。
俺は頷いて、駆け出した。身体能力の向上が、足を軽くする。石畳を蹴るたびに、視界が鋭く冴えていく。先頭を切って標的へ近づく——この距離なら、十秒で詰められる。
問題は、その十秒のあいだ、リベリオに仕事をさせられないことだった。
走りながら、俺は鞘の柄を握り締めた。掌に意識を集める。マナよ、来い、と念じる。けれど、走る振動の中では、指先に集めた細い流れが、何度も途切れた。走る、握る、手繰る。三つを同時にやろうとすると、どれかが抜け落ちる。
後ろで、セレナがアルカナ・コーデックスを構えた気配がした。
「——っ」
炎が灯る。拳ひとつ分。だが、それは標的に届く前に、頼りなく揺れて、消えた。
送られてくるマナが、足りなかったのだ。止まって握っていた昨日までとは、訳が違う。動けば動くほど、細い流れは細くなる。
「止まるな! 次!」
エルザの声が飛んだ。俺たちは標的の手前で足を止め、列の最後尾へ戻る。
セレナは、何も言わなかった。ただ、杖を握る手に、力がこもっているのが見えた。
二巡目までに、俺は腹を括った。
抜けないなら、抜かずに流す量を増やすしかない。それには、走り方の中に、リベリオを握る角度と呼吸を組み込むしかなかった。
人目を盗むように、俺は試し始めた。
走る腕の振りに合わせて、柄を握る向きを変える。掌を真上に向けると、流れが乱れる。斜め後ろへ引くように握ると——わずかに、吸い込む感覚が安定した。
息だ。
足を踏み込む瞬間に息を吐き、その吐く息に合わせて掌に意識を落とす。走る律動と、マナを手繰る律動を、ひとつにする。剣士が剣を抜く代わりに、俺は歩幅と呼吸で剣を振っていた。
三巡目。
「行くわよ」
セレナの声に、今度は頷き返さなかった。頷く間も惜しかった。ただ、駆けた。
踏み込む。吐く。握る。踏み込む。吐く。握る。
掌の中で、マナの流れが、昨日より太く脈打った。鞘の中のリベリオが、応えるように熱を帯びる。
後ろで、炎が灯った。
今度は——消えなかった。拳ふたつ分。走る俺の背を追い越すように、橙色の火が標的へ伸びる。
藁の標的が、焦げた。中心を外して、端を、掠めただけ。名家の令嬢が出す炎には、程遠い。
それでも。
動きながら、火が、届いた。
「……今の、当たったわよね」
列に戻る途中、セレナが小さく言った。息が上がっている。頬が、走った熱とは違う色に染まっていた。
「端っこな」
「当たったの。文句ある?」
「ないよ」
俺は笑った。握り締めていた掌を、そっと開く。汗で濡れていた。けれど、悪い汗じゃなかった。
連携は、まだ粗い。十回走って、火が届いたのは二回か三回。残りは消えたか、逸れた。俺の呼吸が乱れれば、セレナの火も乱れる。二人でひとつの魔法を撃つというのは、思っていたより、ずっと難しかった。
でも、噛み合った瞬間の手応えを、俺たちは、確かに知った。
偽物でも、届く時がある。
訓練が終わる頃、茜色の光が闘技場を斜めに切っていた。
気づけば、エルザが闘技場の縁に立ち、腕を組んで俺たちを見ていた。いつから見ていたのか、分からない。あの鋭い目が、真っ直ぐ、セレナの火を追っている。
背筋が、冷えた。
彼女は、何も言わなかった。他の訓練生の炎を見る時とは、明らかに違う目つきだった。炎の大きさを見ているんじゃない。灯る瞬間の——揺れ方を、見ている。
火が芯から燃え上がるのではなく、外から灯されたように揺れる、あの瞬間を。
ナディアと同じだ。いや、違う。ナディアは「不思議」だと言った。エルザの目は、もっと先を見ようとしている。原因を、探そうとする目だ。
俺は、鞘の柄から手を離した。今握っていたら、何か気づかれる気がして。
「解散」
エルザの声で、訓練生たちが寮へと流れ始める。リオンが「腹減った〜」と大声で伸びをするのが聞こえた。セレナも、杖を布に包み直して、列に加わろうとする。
俺も続こうとした、その時だった。
「——お前」
呼び止められた。
振り返ると、エルザが俺だけを見ていた。セレナが、足を止める。俺は首を振って、先に行け、と目で合図した。彼女は一瞬だけ迷って、それでも歩き出した。距離が離れすぎなければ、問題はない。
茜色の中で、俺とエルザだけが残った。
彼女は、腕を組んだまま、俺の腰に目を落とした。鞘に収まったままの、リベリオの柄に。
「お前、剣を習ったことは」
「……独学、程度です」
嘘だった。習ってなどいない。祖父から譲り受けた剣を、ただ握っているだけだ。
エルザは、ふっと息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、分からない息だった。
「今日、お前は一度も剣を抜かなかった」
「……訓練は、パートナーの護衛が主だと思って」
「違う」
短く、断ち切られた。
「お前の手を見ていた。走りながら、ずっと鞘を握っていただろう。あの握り方は——」
彼女は、一歩、俺に近づいた。小柄なのに、見上げられている気がした。
「剣士の握り方じゃない」
心臓が、跳ねた。
「何かを抜くための握りじゃない。何かを抑え込むような、逃がさないようにするような——妙な握り方だ。剣を扱う者の手じゃない」
何も、言い返せなかった。
エルザは、それ以上は踏み込まなかった。俺の動揺を見て取ったのか、それとも最初から、答えを求めていなかったのか。
「まあ、いい」
彼女は踵を返した。
「お前の剣には、師が要る。抜けない理由が何であれ——その握り方のままじゃ、お前も、あいつも、遠くへは行けない」
あいつ、というのが誰を指すのか。聞くまでもなかった。
遠ざかる銀髪の背中を見送りながら、俺は、握り締めた掌を見た。
偽物の連携は、今日、初めて人の前で火を届けた。
けれど、同じ日に——偽物であることの尻尾も、確かに、誰かの目に触れていた。
遠くで、リオンが俺の名を呼んでいる。
俺は掌を閉じて、駆け出した。近づいてくる答え合わせの足音から、逃げるように。