現代ラブコメ / 短編
二十八度の攻防
作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.08.02 ・ 最終更新 2026.08.02
設定温度をめぐる、隣席の男との無言の攻防。二十八度から一度下げられるたび、{咲野|さきの}は静かに一度上げ返す。冷房戦争の勝敗がつきかけた午後、彼の机の下から出てきたものが、遥の勘違いをそっと溶かしていく——
二十八度の攻防
「また下げましたよね、いま」
咲野遥の声に、隣の席の男は顔も上げなかった。
「下げてません」
「エアコンのリモコン、まだ手に持ってますけど」
冬野は、握っていた白いリモコンを、そっと机の引き出しに滑り込ませた。証拠隠滅にしてはあまりに雑で、遥は思わず笑いそうになったのを、奥歯を噛んで押し戻した。ここで笑ったら負けだ。この二週間、負けるわけにはいかない相手だった。
八月最初の月曜日。窓の外では蝉が壊れたように鳴いていて、空はアスファルトの匂いを溶かし込んだような白さに沈んでいる。それなのに、この十階のオフィスだけは、まるで真冬の倉庫みたいに冷え切っていた。
犯人は、隣の冬野湊だった。
事の発端は、二週間前にさかのぼる。
その日、遥がトイレから戻ると、天井の吹き出し口から吐き出される風が、あきらかに強くなっていた。壁の温度表示は、二十六度。彼女が朝に設定した二十八度から、しれっと二度も下がっていた。
隣を見ると、冬野が涼しい顔でキーボードを叩いていた。半袖のシャツから伸びた腕は、うっすらと汗ばむどころか、乾いた砂みたいに涼しげだった。
遥は無言でリモコンを取り、二十八度に戻した。
三十分後、また二十六度になっていた。
戻した。下げられた。戻した。下げられた。
それが、二週間続いていた。会話らしい会話はほとんどないのに、リモコンだけが二人のあいだを行ったり来たりしている。まるで、言葉にできない何かを、温度に翻訳して押しつけ合っているみたいだった。
「冬野さんって、暑がりなんですか」
ある日、たまりかねて遥は訊いた。嫌味の一つでも言ってやろうと思っていた。
「いえ」
「じゃあなんで下げるんですか」
冬野は少しだけ考えるような顔をして、それから、ぽつりと答えた。
「……なんとなく」
なんとなく、で二度も下げるな。遥は心の中で毒づいた。膝の上ではカーディガンを羽織り、足元には小さなブランケットまで常備するはめになっている。冷房病で頭が痛くなる日もあった。それでも意地で、遥は二十八度を譲らなかった。
「ねえ咲野さん、あなたたち、なんかケンカでもしてるの?」
給湯室で先輩の真柴に囁かれたのは、そのころだ。カップにティーバッグを沈めながら、真柴はにやにやしていた。
「してませんよ。何もないです」
「でもさ、リモコンだけが往復してるの、フロアのみんな気づいてるからね。賭けてる人もいるよ。どっちが先に折れるかって」
「勝手に賭けないでください」
そう言い返しながらも、遥の手はしっかり湯呑みを握っていた。誰が折れるか、なんて。折れるつもりは、こちらには最初からない。
譲れない理由が、彼女にもちゃんとあった。
遥は、この会社で唯一の、営業事務から企画に異動してきた人間だった。
三年間、電話を取り、伝票を打ち、誰かのミスの尻拭いをしてきた。「事務あがりに企画なんて」という声を、聞こえないふりで飲み込んできた。だから、この席で結果を出すまでは、どんな小さなことでも負けたくなかった。エアコンの温度でさえ。
——たかが冷房。されど、譲れば、全部を譲る気がした。
思えば、冬野という男は、最初からよくわからない相手だった。
異動初日、右も左もわからない遥が、共有プリンタの前でエラー表示とにらめっこしていたとき、横からすっと手が伸びてきて、詰まった紙を無言で抜き取ったのが彼だった。礼を言おうとしたら、もう自分の席に戻っていた。歓迎会でも、彼はいちばん端の席で烏龍茶を舐めるように飲んでいて、遥が話しかけるより早く、誰かに呼ばれて立っていった。愛想がいいわけではない。かといって、冷たいわけでもない。ただ、言葉が、いつも一拍遅れて出てくる人だった。
そんな男が、二週間、律儀に冷房を下げ続けている。嫌がらせにしては手が込みすぎているし、無関心にしては、こちらを見る目が、時々やわらかすぎた。給湯室ですれ違うたび、彼はほんの少しだけ、遥の手元に視線を落とす。膝掛けを抱えた腕を。そのたびに何か言いかけて、けっきょく何も言わずに、湯呑みだけ持って戻っていく。
——結局、何なんだろう、この人は。
わからないまま、遥は今日も二十八度に指を伸ばす。わからないから、負けたくない。それが、彼女なりの意地の張り方だった。
その日の午後、遥が資料をまとめていると、冬野がふらりと席を立った。彼のデスクの上には、飲みかけの缶コーヒーと、なぜか薄手のパーカーがきちんとたたんで置かれていた。真夏に、パーカー。暑がりでも寒がりでもない男の机に、それは妙に浮いて見えた。
魔が差した、というほどのことでもない。遥はただ、リモコンがどこにあるか確かめたかっただけだ。冬野の引き出しに、あの白いリモコンが入っているはずだった。
そっと引き出しに手をかけて、引いた。
リモコンは、あった。その隣に、見覚えのある付箋の束も。
そして、机の下——彼の足元の、小さな段ボール箱が目に入った。ガムテープの隙間から、ふわりとした白いものが覗いている。遥はしゃがみ込んで、箱の蓋をそっと開けた。
中には、ブランケットが一枚。それから、使い捨てカイロが、季節外れの山になって詰まっていた。どれも封を切っていない、新品のまま。ひとつ手に取ると、まだひんやりと冷たくて、けれど、握っていればいつか温かくなるのだと、遥にはわかった。
八月に、カイロ。
意味がわからなかった。暑がりだから冷房を下げる男が、なぜ足元に防寒具を隠している。頭の中で、二週間分の攻防が、いっせいに向きを変えはじめた。
「……何してるんですか」
背後から声がして、遥は飛び上がった。振り返ると、冬野が缶コーヒーを二つ持って立っていた。片方を、無言で遥のほうへ差し出してくる。
「勝手に、すみません」遥は箱を指さした。「これ、何ですか。真夏にカイロって」
冬野は、少しだけ気まずそうに首の後ろを掻いた。それから、観念したように口を開いた。
「咲野さん、朝いちばんに来て、いちばん最後まで残ってるでしょう」
「……それが?」
「この階、朝は空調が効き始めるまで時間がかかるんです。夜も、定時で本社が集中管理を弱める。咲野さんが一番、寒い時間帯にここにいる」
遥は、言葉を失った。
「二十八度だと、日中の混んでる時間はいいけど、朝と夜、人がいなくなると効きすぎて冷えるんですよ。設定はそのままで、実際の室温が振れる。だから」
だから、と冬野は続けた。
「人が多い午後だけ、こっそり下げてた。夕方には戻すつもりで。カイロは……その、咲野さんいつも寒そうにしてるから、渡すタイミングを、ずっと」
最後のほうは、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。冬野の耳が、赤くなっていた。
遥は、自分の頬が、じわりと熱を持つのを感じた。
冷房の効いた部屋で、そこだけが夏だった。指先まで冷えていたはずなのに、心臓の音だけが、やけに大きく耳を打っている。
——ぜんぶ、勘違いだった。
意地だと思っていたものは、ただの空回りだった。この二週間、彼女が「奪われた」と感じていた一度、二度の温度は、この不器用な男が、季節外れのカイロを箱に溜めながら、渡す勇気を出せずにいた時間そのものだったのだ。
思い返せば、兆しはいくつもあった。エラーの紙を抜いてくれた手も、給湯室で落ちてくる視線も、いつも一拍遅れる言葉も。全部、同じ場所から出ていたのだ。ただ遥が、それを「敵の攻撃」だと決めつけて、律儀に一度ずつ、上げ返していただけだった。
給湯室で彼が見ていたのは、遥の手元ではなく、寒そうに縮こまった指先だったのだろう。そう気づいた瞬間、二週間ぶんの棘が、いっせいに丸くなっていくのがわかった。
「なんで、言わないんですか」遥の声は、少し震えた。「言ってくれれば、こんな、戦争みたいなこと」
「言ったら」冬野は、缶コーヒーの縁を指でなぞった。「余計なお世話だって、思われそうで」
「思いませんよ」
「……いま、リモコンで二度も戦ってきた人が?」
その言い方があんまりだったので、遥はとうとう噴き出してしまった。二週間、奥歯を噛んで我慢してきた笑いが、堰を切ったようにこぼれた。冬野も、つられたように、ほんの少しだけ口の端を上げた。笑うと、思ったより幼い顔をする人だった。
「じゃあ、ひとつ提案です」遥は、カイロをひとつ、手に取った。まだ振ってもいないのに、手のひらに、これから来る温もりの気配があった。「二十八度は、私が守ります。冬野さんは、寒い時間だけ、これを一個ずつ、私の机に置いてください。無言でいいので」
「……それ、けっきょく戦争のままじゃないですか」
「ちがいます」遥は、缶コーヒーを受け取った。冷たい缶が、火照った手のひらに、ちょうどよかった。「休戦協定です。物々交換の」
冬野は、しばらく黙っていた。それから、引き出しから白いリモコンを取り出して、遥の机の上に、そっと置いた。
「これ、預けます。もう、下げないので」
「いいんですか。暑がりなのに」
「暑がりじゃないって、最初に言いました」
遥は、リモコンを見つめた。二週間、二人のあいだを往復し続けた、小さな白い証拠。それはもう、奪い合うためのものではなくなっていた。
「……ひとつ、訊いてもいいですか」遥は缶のプルタブに指をかけた。「暑がりでも寒がりでもないなら、冬野さんは、夏と冬、どっちが好きなんですか」
冬野は、少し驚いたように目を上げた。二週間、温度の話しかしてこなかった二人の、たぶん初めての、温度と関係のない質問だった。
「……冬、ですかね」彼は、また一拍おいてから答えた。「寒いと、人が、あったかいものを分けようとするので」
その答えが、あんまり彼らしくて、遥はまた笑ってしまった。プルタブを引くと、小さく気の抜けるような音がして、冷えた炭酸が喉を通っていった。苦いはずのコーヒーが、なぜか、いつもより甘い気がした。
窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。
翌朝、遥がいちばんに出社すると、まだ冷えきったオフィスの、彼女の机の上に、カイロがひとつ置いてあった。付箋が一枚、貼られていた。
『二十八度、よろしく』
遥は、その付箋を、そっと手帳に挟んだ。
室温計は、二十八度をさしていた。今日は一度も、動かない気がした。
エピソード一覧
まもなく第1話を公開予定です。