現代ラブコメ / 短編
七階の青
作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.05.07 ・ 最終更新 2026.05.07
七階のオフィスで二年、桐原はずっと敵だった。金曜の午後、白いブラウスに散ったコバルトブルーが、奈月の見方を変えていく——
七階の青
「あ」と桐原が言った瞬間、奈月の白いブラウスに、コバルトブルーが散った。
金曜の午後、四時十二分。 七階のフロアは、明日の連休をすでに半分始めていた。コーヒーカップの底には冷えた液体が残り、誰かが小さな声で笑っている。 奈月の白いブラウスの裾には、午前のうちにこぼした薄茶のしみが、まだ残っていた。出社直後、エレベーターで急いだ拍子の不注意。叱られはしなかったが、自分にだけずっと小さく腹を立てていた。 机の上のインク瓶が、ふしぎとゆっくり倒れていったように見えたのは、あとから思い出した錯覚かもしれない。
奈月は、自分の腹のあたりを見下ろした。インクは点ではなく、左から右へと斜めに走っていた。午前の薄茶のしみの上に、コバルトブルーが重なっている。色相環でいえば反対側にいる二色が、自分の体で出会ってしまった。 「すみません。本当に、ごめんなさい」 桐原の声が、想像していたよりずっと低かった。そういえば、彼の声をこんなに近くで聞くのは、二年で初めてだ。
「桐原さん」 奈月は、できるだけ落ち着いた声で言った。指先が冷えていた。膝の裏に、なぜか小さなしびれが走った。 「これ、洗っても、たぶん落ちません」 「クリーニングに、すぐ出しましょう。下のビルの一階に、いい店があります」 「下のビル、地下じゃありませんでしたか」 「地下です」 「桐原さん、走りますか」 「走りません」 即答だった。
そんなふうに、二人で会社のビルから出るのは、二年で一度もなかった。
そういえば、桐原の机の下には、朝から見慣れない段ボールが二つ、肩を寄せて置かれていた。奈月はそれを、資料の入れ替えだろうとなんとなく思っていた。 気になることほど、人はあとから気になる、と母がよく言っていた。
エレベーターは、混んでいた。連休前のフロアから、何人もが下に降りていく。誰も奈月のブラウスを見なかった。けれど、見ないようにしているのが分かった。 桐原だけが、視線を逸らさなかった。彼は床のタイルを正面で見つめ、奈月のシミの位置を、視界の端で測っているふうだった。
一階のロビーに着いて、ガラスの自動扉をくぐる。五月の午後の空気が、ジャケットの裾をめくる。 「桐原さんって、急いでるとき、走らないんですね」 「走ると、相手が驚くので」 「驚くんですか」 「インクの瓶も、たぶん、そういう理由で倒れます」
奈月は、思わず横を見上げた。冗談を言う顔をしていた。
奈月にとって、桐原は、二年前のあの日からずっと「敵」だった。
二年前の四月、新人配属の二週目。クライアントから初めての名指しの仕事が来て、奈月は迷わず手を挙げた。同じ瞬間に手を挙げたのが、桐原だった。 チーフの一言で、その案件は桐原のところへ流れた。奈月は、自分の机に戻って、しばらく爪先で床を蹴っていた。
それから二年、似たような場面が、たぶん二十回以上あった。 雑誌のリブランド。新規の和菓子店のロゴ。展示会のブースデザイン。気合いの入る案件には、いつも桐原の名前がいた。 奈月は、桐原の仕上げる仕事が嫌いではなかった。むしろ、悔しいくらい好きだった。 だから余計に、嫌いになろうと努力した。
社内ですれ違うとき、奈月は決まって手元の書類に目を落とす。桐原は、いつもひと呼吸早く、こちらに気づいている。 気づいているくせに、彼は呼びかけない。微かに目を伏せて、通り過ぎていく。 その「伏せ方」が、二年間の積もりだった。
去年の夏、社内コンペで奈月の案が桐原の案に負けたとき、彼は受賞の記念パーティにも来なかった。理由は知らない。チーフが「桐原くん、家庭の用事だって」と短く言っただけだった。 あのときのチーフの目が、いま思えば、少し気の毒なものを見る目だった。
ビルの地下のクリーニング屋は、思ったより小さかった。
四十代くらいの女性が、白いブラウスを広げて、片眉を上げた。 「これね……」 「はい」 「コバルトブルーは、中までしみますよ。落ちたとしても、白は二度と元には戻らないと思って」 「分かりました」 奈月は静かに答えた。横で、桐原がふっと息を吐いたのが分かった。
「そのあいだ、上は何を着るの」 店主が、奈月のスニーカーから足元、頭、と視線を回した。 「これだけだと寒いし、まずいでしょ」
桐原が、自分の鞄を開けた。中から、たたまれたグレーのジャケットを取り出した。 「会議用に、置いてあったやつです。サイズは、合わないと思います」 「いえ、いいです。社に戻って、上着を……」 「五月の七時すぎは、結構冷えます。しかも、ノーブラウスで歩く距離がもったいない」 桐原は、最後の言葉を言ってから、自分で口元を押さえた。 「ノーブラウス、は、変な言い方でしたね」 「変です」 奈月は答えながら、思わず、肩で笑ってしまった。二年ぶりに、彼の前で、声を出して笑った気がした。
ジャケットは、想像通り大きかった。
肩線が腕の半分まで降りていた。袖口は手の甲を半分隠している。それでも、毛織りの匂いだけは、控えめでよかった。微かにベルガモットの香り。男の人の制服の香り、というより、二月の早朝の電車に近い清潔さ。
クリーニング屋から数歩歩いたところに、小さな緑地があった。古い銀杏の木の下に、木のベンチがひとつ。 桐原は、そこを示すしぐさをしてから、自分も座った。距離は、肘ひとつ分。
「すみませんでした、本当に」 彼は、もう一度言った。 「インクの蓋を留め損ねていたのは、僕です」 「もういいです」 奈月は、ジャケットの裾を握った。 「桐原さんが、わざとやる人じゃないことは、知ってますから」 「敵だと思っていた、と聞いたことがあります」 「は」 「美術部の後輩から、です。半年前のいつか」
そんなことを誰にも言ってないつもりだった。たぶん、酔った夜の、二人だけの居酒屋。後輩の口の軽さにも、自分の心の脆さにも、いま少しだけ腹が立つ。
「敵じゃないですよ」 桐原は、視線を空に向けた。 「ぼく、二年で五回、自分の名前が呼ばれた案件を、高槻さんと半分ずつにできないか、上に交渉してます。三回は、断られました」 「……は」 奈月は、首だけで彼のほうを向いた。 「二回だけ、通った。クライアントに『二人体制で』と言わせるのに、思ったより理屈が要るんですね、こういうのは」 「桐原さん、なんで」 「面白い仕事を、ひとりで抱え込みたくないからです。それが理由。それと、あと半分は——」
彼は、銀杏の若葉を見上げて、それから言葉を止めた。 近くの公園で、子供がボールを蹴る音がした。一回、二回、それから笑い声。世界はちゃんと金曜のままだった。けれど、奈月の中だけ、すこし時計の針が遅れていた。
「あと半分は、月曜になったら、もう関係ないことです」 「月曜?」 「来月一日付けで、大阪支社に異動します。今日が、東京での仕事の最終週でした」
銀杏の葉が一枚、ベンチの肘掛けに落ちた。
奈月は、口の中で「最終週」を一度繰り返した。 頬の奥が、勝手に熱を持った。寒くて泣きそうなのか、悔しくて泣きそうなのか、自分でも分けられない。 朝の段ボールが、ようやく意味を結んだ。送別の品ではなく、桐原自身の荷物だった。 「教えてくれなかったですね」 「言うつもりは、ありました。今日のラスト一時間で」 「今日?」 「五時半に、フロアでパスタの残りを食べながら、軽く言うつもりでした。重くしたくなかったので」 「重くなりますよ、それ」 「重くしないように、と思ってました。ぼくも、重くしたくないのは同じです」 「なんで、重くしたくないんですか」 「軽くしておかないと、聞いた人が、引き留められない気がして」
奈月は、ジャケットの裾を、もういちど握り直した。 その夜、自分のベッドの中で、この台詞だけ何度でも思い出すことになる、と直感した。
会社のビルに戻り、エレベーター前まで来た。
七階のボタンを押す前に、奈月は、自分の鞄から、薄いスケッチブックを取り出した。 ぱたん、と音を立てる種類の、小さな手帳サイズの紙。 「これ、桐原さんに、渡したいものがあって」 「ぼくに?」 「二年分です。たぶん、八冊目」 「中身は」 「桐原さんを、たまに、描いてました。あの、敵としてです」 「敵を、描く?」 「敵じゃないと、認めたくなかったから、たぶん」
エレベーターのドアが開いたが、二人とも乗らなかった。
桐原は、スケッチブックを丁寧に開いた。最初のページから、だんだん最後の方へ。表情の角度、襟の折り、手元のクセ、ひとつひとつが、月の異なる紙の上にあった。 「全部、桐原さんが、誰かのために残業している顔です」 「誰か?」 「ぜんぶ違う誰か、です」
桐原は、しばらく黙った。エレベーターのドアが閉まり、また開いた。だれも降りてこない。だれも乗らない。エレベーターは、二人にだけ気を遣う機械みたいだった。 彼は、最後のページを開いて、止まった。そこには、彼が、奈月のほうを向いている顔があった。机の角越しの、はにかんだ視線。 「これは、いつ?」 「先月の、火曜日です。十時十二分。あなたが、私のモニターを覗き込んだときの顔です」 「わざと、覗いてました」 「知ってました」 「どうして、笑わなかったんですか」 「笑ったら、敵じゃなくなるからです」 「敵を、続けてくれて、ありがとうございました」 「礼を言われる筋合いじゃないです」 「言いたかったので」
奈月は、ジャケットの袖を、ゆっくり折り返した。
外は、夜になりかけていた。
七階の窓から見える空は、深い青に、まだほんの少しだけオレンジを残している。色相環でいうと、奈月のブラウスに散ったコバルトブルーの、ちょうど隣の色。 彼女は、店主の言葉を思い出した。 ——白は、二度と元には戻らないと思って。
戻らなくていい、と、奈月は思った。 戻したくない色だってある。
桐原は、スケッチブックを胸の前で抱えたまま、まだエレベーターの前に立っていた。 「これ、もらっていいですか」 「持っていってください、大阪に」 「金曜には、戻ってきます」 「金曜?」 「来月から、毎週金曜だけ、東京での打合せにします。半分ずつにする案件、増やすために」
奈月は、ジャケットの袖から手だけ出して、彼の指のあいだに、自分の指を、ほんの一瞬、置いた。 触れたとも触れなかったともいえる、その短さで。
それでも、二年分の「伏せ方」が、その指の隙間で、ゆっくり溶けていくのを奈月は感じた。 桐原の喉が一度動いた。何かを言いかけて、それから、彼は薄く笑った。 「金曜の十八時、ロビーで、待っていてもいいですか」 「五分だけ、遅刻していいなら」 「遅刻、好きですよ」 「初めて聞きました」
七階の青が、ふたりのうしろで、ゆっくり夜になっていった。
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まもなく第1話を公開予定です。