第一章「四月の再会」
第8話「窓辺の続き」
公開:2026.06.17 ・ 3,441文字
窓辺の続き
月曜の朝、月島の窓のガラスに、夜のあいだ降っていた雨の、最後のひと粒が残っていた。
槙はカーテンを半分だけ開け、外の空を確かめた。空は雨を抜けかけているところで、雲のうしろにある薄い水色が、ぼんやりと滲み出していた。窓の桟に指を置くと、まだ湿りが残っていた。指先のひんやりした温度が、寝起きの頭の輪郭を、ひとつ整えた。
机に向かい、ノートパソコンを開いた。スマートフォンの画面には、昨夜伏せたままにしておいた周のメールが、まだ同じ位置で待っていた。坂の途中で振り返らなかったことについては、画面のどこにも書かれていない、その通りの形で、画面のなかに在り続けていた。
返信を、今日のうちに書くと、昨夜のうちに決めていた。書き始める前にもう一度、決め直してから、新規メールを開いた。
「工藤様
ご丁寧にありがとうございます。来週金曜、午後二時、群青書林の応接、承知いたしました。資料は前日までにお送りします。
高橋」
四行で書き終えた。文末の「高橋」を、いちどだけ「高橋槙」に直し、もう一度「高橋」に戻した。周からの宛名が「高橋槙さま」に変わっていたことを、自分の返信の署名で受けるかどうか。受けてしまえば、事務の枠が、ほんの数ミリ広がる。広げないでおく、ということを、今朝の指先は選んだ。
送信した。画面の右上で、送信済みの小さなチェックが、ふと灯った。
槙は珈琲を淹れた。湯を注ぎ、ドリッパーの底からの一滴目を、いつもより長く待った。待っているあいだ、頭のなかで、昨日浅井が言った「やり直さない、と決めたあとの言葉」という一行が、もう一度、輪郭を持って通り過ぎた。仮題の隣に書いた「あとの声」の三文字は、湿気のせいでまだ滲んだままだろう、と思った。
机のうえで、スマートフォンが短く震えた。
差出人は、葉山涼太だった。件名は、相変わらず短かった。
「今日の夕方、いつもの窓辺、よろしければ」
本文は、空欄。葉山は、本文で気を遣わない代わりに、件名のひと文字で迷う書き手だった。「いつもの窓辺」と書いた手は、十分に迷ったあとで打たれているはず、と槙には判った。
「うかがいます。十七時に。高橋」
二行で返し、窓のほうを見た。月島の空は、もう半分以上、青に戻ろうとしていた。
夕方、神保町の路地は、雨後の重さを残したまま、夕陽の色を半分だけ受けていた。
葉山が指定した「いつもの窓辺」は、すずらん通りから一本入った、昔ながらの喫茶だった。店名は「窓辺」。本当にそれが店名なのか、葉山がそう呼んでいるだけなのか、槙にはずっと判らなかった。
扉を押すと、店の中は、外より一段静かだった。窓辺のテーブルは三つあって、いちばん奥の席に、葉山はすでに座っていた。前に薄い紙の束を置き、ノートを開いていた。槙が会釈すると、葉山は片手を軽く上げた。
「すみません、先に座っていました」
「いえ。お待たせしました」
槙は珈琲を頼み、向かいに座った。葉山のテーブルのうえには、原稿の束のほかに、書きかけの一頁が、ひとり分の幅で広げられていた。葉山は手書き派だった。万年筆のインクの色が、夕方の窓の光に、深い藍を返していた。
「短編、書き出してみました」と葉山は言った。「書き出してみたら、思ったより、自分の声で書けています」
「自分の声、というのは」
「『葉山』の声で書いている、ということです。『葉山先生』の声では、書けない一行が、ある気がして」
葉山は、頁の真ん中あたりを、指の腹で軽く撫でた。
「一日目の続き、ですね」と槙が言った。
「ええ。一日目の、続き、です」
「あの、葉山さん、」
槙は、注文した珈琲が運ばれてくる前に、ひとつだけ、共有したいことがあると切り出した。
「浅井先生から、仮題を、少しだけずらしたいというご相談がありました」
「『三十二歳の声』を、ですか」
「ええ。浅井先生のぶんだけ『三十二歳のあとの声』に。短編集全体の仮題は据え置きます」
葉山は、ペンを置き、しばらく黙った。沈黙のあいだ、店の奥で珈琲をひく音が、低く鳴っていた。
「『あとの声』」と葉山は、声に出して呼んだ。「いい副題、ですね」
「私もそう思いました」
「浅井さんは、たぶん、やり直さないことを書ける位置に、もういらっしゃるんだろうな」
葉山は、自分のノートに目を落としたまま、そう言った。
「葉山さんは、書きながら、やり直しているほうですか」
槙は、自分でも思っていなかった一文を、口に出していた。出してから、しまった、と少し思った。仕事の場で踏み込んでよい言葉ではなかった。
葉山は、笑った。低く、ひと呼吸の半分だけの長さで。
「ぼくは、まだ、どっち側だか分からないところで書いています。やり直す側にも、やり直さない側にも、半歩ずつ」
珈琲が運ばれてきた。槙は片手でカップを包み、葉山の言葉のリズムに、自分の呼吸を寄せた。ノートの別の頁に、メモの形にしないまま、輪郭だけを薄く写した。
「高橋さんは、いま、何かを書きかけていますか」
葉山は、ノートから目を上げて、まっすぐに訊いた。問いの口調は、昨日の浅井のそれとよく似ていた。同じ問いを、立て続けに二日、別の口から受け取っていることに、槙は少しだけ目を伏せた。伏せながら、首の付け根のあたりに、ほんのわずかな熱が走った。
「書きかけては、いません」と槙は言った。「書きかけてはいないけれど、書かないでいる、ということを、自分で選んでいるのだと思います」
「それは、書きかけている、というのと、同じ言い方ですね」
「——そうかもしれません」
「保留が、いちばん上等の答えのときが、ありますよ」
葉山は、そう言って、もうひと口、珈琲を含んだ。窓辺の光は、もう半分以上、夕方の色を吸い込んでいた。葉山の眼鏡のレンズの縁が、いっとき、薄い橙を反射した。
「葉山さん」と槙は言った。「もしよろしければ、書きかけの頁、置いていっていただけますか。今夜のうちに、ひと度だけ、目を通して、明日コメントを差し上げます」
「お願いします」
葉山は、頁の右下に、日付と、自分の名を、万年筆で書き足した。「2026.6.15 葉山」。十年前なら「葉山涼太」と書いたかもしれない、いまは姓だけになった署名だった。
会計を済ませ、外に出た。夕陽は、神保町のビルのあいだに、低く垂れていた。
「では、また」と葉山は言って、駅のほうへ歩いていった。背中はひとり分の歩幅で、すこし右に傾いだ、その人らしい歩き方だった。槙は反対方向に歩き出し、十歩ほどで、振り返ろうかどうか自分に訊き、振り返らなかった。それが、今日の自分の選びかただった。
月島の部屋に戻ったのは、八時前だった。
灯りをつけ、葉山から預かった頁を、机のうえに広げた。藍色のインクが、白い蛍光灯のもとで、夕方の窓辺とは少し違う色に見えた。槙は付箋を一枚だけ用意した。書き込みは最小限に、というのが、ここ数年の自分の編集の流儀だった。
頁にひと度、目を通した。一行目から、書き手の声がまっすぐ立っていた。「葉山先生」と呼ばれていたあいだは、こんなふうには立たなかった声かもしれない。槙は付箋を頁の左上に貼り、ひと言だけ書き込んだ。
「この声で、続きを」
スマートフォンが、机のうえで短く震えた。
差出人は、周だった。本文は、相変わらず端正に整っていた。
「高橋さま
来週金曜の合同打ち合わせに先立ち、もう一度だけ、当方とこちらだけで事前のすり合わせをさせていただけないでしょうか。木曜の午後、神保町のつかさ亭にて、十四時はいかがでしょう。前回いただいた仮題変更の件と、装幀の発注先について、二点、口頭で申し上げたいことがございます。
工藤」
槙は、画面のうえを、二度読み返した。
「装幀の発注先について、二点」。
二点、のうちのもうひと点は、たぶん仮題のことだけれど、装幀の方角から書き出されていることに、槙の指先がほんのわずかに止まった。読み返した二度目のあとで、息を、ひと呼吸ぶん預けた。預けてから、ゆっくり吐いた。窓の外で、もうやんだはずの雨が、別の階のベランダのどこかから、滴の音をひとつだけ、こちらに届けてきた。
返信は、今夜のうちに書くと決めた。決めたあとで、画面はまだ伏せなかった。
机のうえの葉山の頁のうえに、付箋の藍色の隅が、わずかに反射していた。窓辺の続き、と、槙は声には出さずに、ノートの白い余白に書いた。書いたあとで、その三文字の隣に、もうひとつだけ、書き加えた。
「木曜、十四時」。
書き加えた瞬間、机のうえの空気が、ひとつ、温度を整えた。