SFサスペンス / 短編
霧の割れ目
作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.08.09 ・ 最終更新 2026.08.09
都市を冷やす{霧幕|きりまく}の濃度マップに、毎週火曜だけ直径十メートルの穴が開く。設備は正常、記録は誤作動として処理済み。退職した前任者が残した手書きの観測ノートが示していたのは、その穴が週に七メートルずつ北北東へ動いているという事実だった。延長線の先にあるのは、小学校の通学路——
霧の割れ目
「また出てます。火曜の穴」
鵜飼奏は端末の画面を、班長のほうへ向けた。
湊見市の濃度マップは、いつもどおり薄青く塗られている。市街地の上空十メートルに張られた霧幕——夏の路面温度を下げるため、細かな水の粒を絶やさず撒き続ける設備の、現在の状態だ。散水量と気温と風向から、機械が一分ごとに濃度を計算して色を塗る。
その薄青の真ん中に、白い円が浮いていた。直径は十メートルほど。周囲より霧が薄い。抜けている、と言ってもいい。
「先週も見たな」篠田は麦茶の紙コップを机に置いた。「ノズルだろう。三十七番の系統、去年も詰まった」
「三十七番は昨日、私が見ました。吐出量は規定内です」
「じゃあ、センサーの誤作動だ」
篠田は画面を三秒だけ見て、それから壁の時計を見た。午後四時二十分。市の委託業務は五時で終わる。誤作動として処理すれば報告書は三行で済む。奏はその三行を、この二か月で八回書いていた。
「……了解しました」
奏は端末を閉じた。指先に、まだ画面の熱が残っていた。
湊見市の霧幕は、六年前に入った設備だ。
海から二キロ、内陸に向かって緩く傾いた土地に、古い商店街と新しい団地が混ざり合っている。夏の路面温度が四十五度を超えた年に市が導入を決め、いまは主要な通りの上を、目に見えるかどうかぎりぎりの白さが覆っている。人はそれを霧とも呼ばず、ただ「ぬるい」と言った。効いている証拠だった。
奏の仕事は、その白さを保つことだった。散水ノズルの目詰まりを取り、圧を測り、濃度マップに出た異常を潰す。地味な仕事だと言われれば、そのとおりだと思う。ただ奏は、この設備が嫌いではなかった。都市の上に、誰も見ていない天気がひとつ増えている。そういう感じがした。
事務所を出ると、アスファルトの照り返しが足首を舐めた。
自転車を押しながら、奏は昼間の白い円のことを考えていた。八回。八回とも火曜だった。時刻はいつも午前七時前後。位置は、少しずつずれている。
ずれている、という言い方が正しいのかどうかも、まだわからなかった。
翌日、奏は倉庫の奥の書棚を開けた。
前任者の私物が、段ボール一箱だけ残っていた。戸倉という技師で、奏が配属される三か月前に辞めている。会ったことはない。篠田は「几帳面な人だった」とだけ言った。
箱の中身は、作業手袋と、折れた圧力計と、大学ノート五冊だった。
奏は一冊を抜いて、床に座り込んだ。
方眼のマスに、ボールペンで細かく数字が並んでいる。日付、時刻、気温、風速。そして市の区画番号と、二桁の数値がひとつずつ。濃度の実測値だった。機械のログではない。戸倉は現場に立って、自分の測定器で霧の濃さを測っていた。
火曜日の行だけ、数字が赤いボールペンで書かれていた。
倉庫には窓がひとつしかなく、その一枚から夕方の光が斜めに落ちていた。紙は湿気を吸って、めくるたびに乾いた埃の匂いを立てた。指の腹に、ボールペンの押し跡がざらりと引っかかる。強く書く人だったのだと、奏は思った。
奏は五冊を並べ、赤い行を拾い出した。一年半分、七十六回。すべて火曜。すべて午前七時前後。区画番号は、少しずつ北へずれていく。
ノートの最後のほうで、戸倉の字が変わっていた。細かった文字が大きくなり、マスから少しはみ出している。
《系統異常なし。地表側を疑う》
その次のページに、一本の直線が引かれていた。市街地の略図の上に、赤い点が七十六個。ほぼ一直線に並んでいる。点と点の間隔は、どれも同じだった。
余白に、走り書きがあった。
《週七メートル。北北東》
奏は、自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。
七メートル。何かがずれているのではなく、動いているということだ。
その夜、奏は事務所に戻って端末を開いた。
霧が薄くなるには理由がいる。撒く水が減るか、水が早く消えるか。ノズルは正常だった。ならば後者だ。
乾いて温かい空気が下から昇れば、水の粒はそこで蒸ける。霧幕は割れる。円の直径十メートルというのは、そういう上昇気流の太さとして無理のない数字だった。
問題は、なぜ火曜の朝だけ、そこから乾いた空気が昇るのか。
奏は市の管路図を呼び出した。上水、下水、雨水、電力。層になった線をひとつずつ消していき、赤い点の列と重なるものを探した。
三本目で、手が止まった。
送水管だ。四十年前に敷かれた口径六百ミリの本管が、赤い点の列とほぼ同じ角度で、北北東に走っている。
火曜の午前七時前後。市の配水は、週明けの需要増に合わせて日曜深夜から段階的に圧を上げる。土日に落とした圧を戻しきるのに、二日かかる設定だった。火曜の朝が、ちょうど頂点にあたる。
奏は配水記録を三年分さかのぼった。圧の頂点は、例外なく火曜の六時台から八時台に来ていた。戸倉の赤い行の時刻と、ぴたりと重なっている。
奏は、管の周りで起きていることを頭の中で組み立てた。
小さな漏れが、土を洗う。洗われた土が地下に空洞を作る。空洞は、圧の強い日ごとに少しずつ管沿いに伸びていく。空洞の中には、地熱で温まった乾いた空気が溜まる。舗装の継ぎ目や下水の枡から、それが昇る。
昇った先で、霧が割れる。
だから穴は動いていた。管に沿って、週に七メートル。空洞の先端が進む速さだ。
奏は口の中が乾いているのを感じて、麦茶を飲もうとして、紙コップが空だと気づいた。
そして、赤い点の列に定規を当てた。
延長線の上に、次の火曜の位置がある。地図をひとつ拡大して、奏の指が止まった。
三ツ辻の横断歩道だった。
湊見第二小学校の通学路。朝七時四十分から八時五分まで、旗を持った見守りの大人がひとり立ち、二百人近い児童が渡る場所だ。
奏は椅子の背を強く握った。指が震えているのがわかった。震えを止めるために握ったのに、握るほど震えた。
壁の時計は、午前一時を指していた。次の火曜まで、あと三十時間もなかった。
篠田は、月曜の朝一番で電話に出た。
奏は五分で説明した。ノート、七十六回、週七メートル、送水管、火曜の配水圧。そして三ツ辻。
篠田は最後まで黙って聞いた。それから、短く息を吐いた。
「戸倉さんも、同じことを言った」
奏は、受話器を持ち替えた。
「去年の秋だ。おれはセンサー誤作動で上げた。ノズルの記録は正常だったし、地面のことは、うちの担当じゃない」篠田の声が、少しかすれた。「あの人は、それでも測り続けたんだな」
「班長」
「わかってる。市の道路課に、おれから言う。ただな、鵜飼」
「はい」
「掘るには、根拠がいる。霧の色じゃ、たぶん通らない」
奏は、それについては夜のうちに考えていた。
「地面を叩きます。打音と、路面の温度差。空洞の上は、朝の路面がわずかに温かいはずです」
「何度だ」
「〇・四度あれば、うちの測定器で出ます」
電話の向こうで、椅子が動く音がした。
「六時に来い。車を出す」
火曜の午前六時十分、三ツ辻には人の気配がなかった。
空はまだ薄青く、店の日よけは畳まれたままだ。霧幕は動いている。息を吸うと、ほんのわずかに水の匂いがした。
奏は路面に測定器を当てて、五十センチずつ位置を変えていった。横断歩道の白線を三本またいだところで、数字が動いた。
〇・六度。
打音棒を握り、その真上を叩く。硬いはずの音が、太鼓のように尾を引いた。
「篠田さん」
奏の声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。
篠田がしゃがみ込み、同じ場所を叩き、それから無線に手を伸ばした。
道路課の車が来たのは、七時十五分だった。三角コーンが並び、黄色いテープが横断歩道の手前に張られる。ちょうどそのころ、通学路の向こうから、白い帽子の列が近づいてきた。
見守りの女性が、テープの前で足を止めた。
「渡れないんですか」
「反対側の歩道に回してください」奏は迂回路を指した。「橋の下を通って、二百メートルです」
女性は児童のほうを振り向いて、大きく手を回した。列が、ゆっくりと折れ曲がっていく。ランドセルの黄色いカバーが、朝日を弾いてひとつずつ光った。
奏はその列を、数えていた。数える理由はなかった。ただ、数えていた。
三十人を過ぎたあたりで、後ろから男の子が走ってきて、テープの下をくぐろうとした。奏はとっさに肩を掴んだ。思ったより薄い肩だった。掴んだ手のほうが、ずっと強く震えていた。
「そっちは通れないよ」
男の子は不満そうに口をとがらせ、それから列の最後尾へ駆けていった。
八十四人目が橋の下に消えたとき、背中のほうで、低い音がした。
音というより、腹に触れる振動だった。
振り向くと、横断歩道の白線が三本、水を吸った紙のようにたわんでいた。次の瞬間、その一帯が、下へ抜けた。
土煙が上がった。乾いた土の匂いが、水の匂いを押しのけて広がる。
穴は、直径三メートルほどだった。深さは二メートル半。底に、六百ミリの黒い管が横たわっていて、その継ぎ目から水が糸のように噴いていた。周りの土は、洗い流されて何もない。
そして穴の口から、ゆらりと空気が昇っていた。
奏はそれを見上げた。
昇った先で、霧幕が割れていた。上空十メートル、直径十メートル。八回の報告書に「センサー誤作動」と書いた、あの白い円。
今日はそれが、目の前で開いていた。
夕方まで、奏は現場にいた。
道路課の調査で、空洞は管沿いに三十メートル以上伸びていることがわかった。担当者は、あと二週間気づかなければ交差点の中央まで届いていたと言った。
「よく見つけましたね。地面の上からじゃ、わかりませんよ」
「上からじゃなくて」奏は空を指した。「上のほうから、です」
担当者は指の先を追って、白くぬるんだ空を見上げ、それから曖昧に頷いて図面に戻った。伝わらなくてもかまわなかった。
篠田は報告書を自分で書いた。八行あった。誤作動という言葉は、どこにもなかった。
事務所に戻る車の中で、奏は膝の上に大学ノートを載せていた。
五冊目の最後のページを、まだ開いていなかった。開いても数字しかないと思っていた。
信号待ちで、めくった。
方眼の隅に、赤いボールペンで一行だけ書かれていた。
《誰も見ていない天気は、いつか地面に落ちる》
奏はその文字を、しばらく指でなぞった。
車が動きだす。窓の外の通りは、いつもどおり白くぬるんでいた。誰もそれを見上げていない。奏は少しだけ窓を下げて、水の匂いを吸い込んだ。
来週の火曜も、自分は測りに行くのだろうと思った。
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まもなく第1話を公開予定です。