第一章「混入」
第12話「三つ数える」
公開:2026.07.17 ・ 3,036文字
三つ数える
四時十二分の少し前に、水は、約束どおり退きはじめた。
玲は、名のない歩道橋の上に立っていた。六月の夜明けは早い。空はまだ暗く、東の縁だけが、鉛を薄めたように白んでいる。運河の水面は、家を出たときより、確かに下がっていた。橋脚の根に、濡れた黒い帯が一本、さっきまで水のあった高さを、正直に残している。
風は、ほとんど無かった。夜明け前の運河は、都市の音を底に沈めて、ただ水の退く気配だけを立てている。玲は、ここへ来ると決めた覚えが、やはり無かった。決める前に、整備手帳の隅に四桁が書かれ、決める前に、足が、この橋を渡っていた。運ぶと決めた荷物を、途中で降ろしたことは、十七年、一度もない。今日だけは、その荷物が、運ぶ本人の頭に入っている。
欄干に手を置くと、錆が、指の腹にざらりと来た。その手触りを、玲は初めて触るのに、覚えていた。昨日の朝、台所で卵を割った手が、この錆も、先に知っていた。混ざった男は、この欄干に、何度も手を置いている。
橋の中ほどで、玲は下をのぞいた。
のぞいた瞬間、体の奥で、数が、ひとりでに始まった。ひとつ。ふたつ。欄干の隙間から水面までの距離を、子どもが飛び降りるまでに数える、あの三つだった。みっつ、で、玲は数えるのをやめた。数えたのは、玲ではない。玲の中の誰かが、遠い昔、この橋の上で、同じ三つを数えている。
三つ数える橋、というのは、そういう意味だった。名前ではなかった。誰かの、いちばん古い記憶の中でだけ、この橋には、その名がある。
玲は、橋のたもとまで戻り、護岸の脇の、鉄の梯子に足をかけた。
十年、配達の帰りにこの橋を渡って、その梯子があることに、玲は気づいたことがなかった。運ぶ側の人間は、降りる場所を、覚えない。だが今朝は、爪先が、段の間隔を、先に知っていた。目で確かめるより早く、足が、次の桟を踏んでいく。荷台にした頭が、玲の体を、勝手に配達へ向かわせていた。
降りるにつれ、匂いが変わった。水の匂いではない。潮の引いた干潟の、泥と、貝と、油の混じった匂いだった。都市の運河の底が、一日に二度だけ、素顔を見せる時間の匂いだ。ヘドロの上に、コンクリートの護岸が、濡れて黒く続いている。
諏訪の声が、その泥の匂いに混じって、戻ってくる。近い相手は、弾かない。受け入れて、混ざる。玲は、降りながら、自分の手の甲を、一度だけ見た。夜目には、ただの自分の手だった。だが、この手が、あと何日で、どこまで他人の器用さを覚えるのか、玲には、もう、見当がつかなかった。混ざりきる前に、荷物を届けてしまいたかった。届けてしまえば、送り主は、玲の中で、待つのを、やめるはずだった。
携帯は、上着の内側で、家を出る前から沈黙していた。ゆうべ、七尾の名は、三度目を灯して、消えた。留守番の赤い印は、二つに増えたまま、開いていない。若い声を、こんな場所へ、こんな刻に、呼ぶわけには、いかなかった。薄い札で人を呼ぶと、呼んだ相手のほうから欠けていく。玲は、その理屈だけは、五年前から、体で覚えている。
口の中が、乾いていた。脈が、首のポートのすぐ下で、速く打っている。玲の脈ではなかった。混ざった男の秒針が、この刻に近づくにつれ、玲のものを追い越して、走りはじめていた。ずっと、この四時十二分へ向かって、走っていた秒針だった。
梯子を降りきると、そこに、段があった。
満ちれば沈み、引けば現れる、コンクリートの段が、ひとつ。潮汐表の谷が、間違っていなかった証だった。段の表面には、まだ水が薄く残り、夜明けの白を、鈍く返している。玲は、泥に足を取られながら、その一段の前に立った。
段の、水路に面した側面に、手を差し入れた。
指が、金具に触れた。目には見えない、段の裏の窪みに、何かが、固定されている。冷たい、四角い匣だった。防水の樹脂で、ボルトで、段の裏に留めてある。即席の隠し場所ではない。潮の満ち引きに、何年も耐えるように、設えられていた。誰かが、この段を、配達の終端に選び、造り込んだのだ。
玲は、匣の蓋を、指先で外した。
中には、黒いカートリッジが、ひとつ。直径三センチ。使用済みの、空の一本だった。表面のID面は、細かい傷で、潰されている。読み取れないように、誰かが、意図して削った跡だった。宛名は書けない、と男は言った。書いた瞬間に死ぬ、と。名を削ることが、この配達の、宛名の書き方だった。
匣の底には、同じ黒が、あと二本、沈んでいた。古いほうは、樹脂が白く曇り、金具に錆が回っている。この段の裏を通った荷物は、これが最初ではなかった。何年も、潮の下で、誰かが、宛名の書けない配達を、ここへ届け続けていた。玲の知らないところで、届かなかった荷物が、この一段に、静かに溜まっていた。
カートリッジの隣に、もうひとつ、あった。
腕時計だった。
古い、金属の腕時計。左手首に巻く革のベルトは、潮で硬く縮んでいる。風防に、斜めの傷が、一本。玲は、その傷を、知っていた。ゆうべ、他人の目で見た。防波堤の上で、速い手つきで、何度も確かめられていた文字盤だ。時刻を知るためではなく、残りの時間を確かめる、あの見方の、時計だった。
記憶の中の時計が、いま、玲の手のひらに、実物として載っていた。
転写されるのは波形で、物は運ばれない。諏訪は、そう言った。海水も、匂いも、運ばれない。ならば、この時計は、記憶の中から出てきたのではない。記憶とは別に、送り主が、確かに、この世に置いていったものだった。混ざった男は、幻ではなかった。ひとりの人間が、この時計を左手首に巻いて、あの冬の海に立ち、そして――この段の裏に、それを残した。
玲は、その時計の裏蓋を、返した。
彫られた文字は、潮で半分溶けていた。それでも、下の名の三文字は、まだ読めた。
読めて、しまった。
玲は、動けなかった。
知っている名だった。五年、輪郭でしか思い出せなかった夜の、芯のところに、ずっと欠けていた、その名だった。欠けていたのではない。玲は、それを、思い出さないようにして、五年、荷物を運んできた。段の裏の、潮の届かない窪みに、それは、玲が来るのを、待っていた。
玲は、五年前の夜を、また、輪郭で撫でた。芯は、まだ欠けている。だが、欠けた縁の形が、この名と、ぴたりと合った。合ってしまえば、もう、知らなかったことには、できない。缶の底から来た波の音は、事故でも、混入でもなかった。名を消して送られた、たった一人宛ての、遺言だった。
首のポートの下で、走り続けていた秒針が、ふいに、止まった。
着いた、というふうに、止まった。
送り主は、この刻に、この段に、玲が立つことを、知っていた。読める人間は、この世に、一人しかいない。その一人を、四時十二分の干潮まで、正確に、運んできた。荷物は、届いた。届け終えた男の脈は、玲の中で、もう、時間を数えるのを、やめている。
東の空が、白から、薄い橙に変わりはじめた。運河の水は、まだ、引いている。玲は、時計を握った手を、胸のあたりで、一度、閉じた。
――結城さん。
声が、上から降ってきた。
橋の上だった。夜明けの逆光に、細い人影がひとつ、欄干から、こちらをのぞいている。三つ数える、あの高さから。玲が留守番の赤を開かなかった相手が、玲より先に、この橋を、見つけていた。
玲は、時計を握ったまま、顔を上げた。段の上の水が、爪先で、また少し、退いた。
第一章「混入」完。 次章『五年前の同僚』へ続く。