NOVLUM

記憶配達人

第一章「混入」

第10話「波の音」

公開:2026.07.03 ・ 3,037文字

波の音

他人の記憶は、匂いから始まる。そのことを、玲に教えた者は、いなかった。

最初に来たのは、潮だった。次に、風。頬の左側だけを削っていく、冷たい風だった。ここは品川の自室で、季節は六月の深夜のはずだった。その「はず」が、音もなく崩れていく。首の後ろに差した線から、別の朝が、流れ込んでくる。

部屋の音が、遠くなった。冷蔵庫の低い唸りも、運河の水の気配も、輪郭だけ残して薄れていく。かわりに、自分のものではない心拍が、玲の胸の内側に、一拍ずれて重なった。二つの鼓動は、しばらく喧嘩をして、それから、どちらかが折れた。どちらが折れたのかは、分からなかった。

視界が、開いた。

海だった。

冬の海が、目の前にあった。灰色の空と灰色の水のあいだで、白い波頭だけが動いている。防波堤の先端だった。足の下にコンクリートの冷たさがあり、その冷たさは、玲のものではない足の裏から、確かに伝わってきた。沖のほうに、貨物船が一隻、止まって見えるほどゆっくり動いている。人の姿は、どこにもなかった。

体が、歩き出す。玲が歩かせたのではない。記憶の持ち主が、あの朝、そう歩いたのだ。追体験というのは、運転席に座らされた助手席の客だった。景色は全部見える。ハンドルには、触れられない。

視線が下がって、両手が見えた。男の手だった。骨の太い、指の長い手。左の手首に、風防に傷のある古い腕時計が巻かれている。文字盤を確かめる仕草が、妙に速かった。時刻を知るためではなく、時間がまだ残っていることを確かめる、見方だった。

その手つきに、玲は、覚えがあった。

誰の、とまでは言えなかった。記憶は、持ち主の見たものしか映さない。人は、自分の顔を見ずに一日を過ごす。鏡さえ覗かなければ、記憶は最後まで持ち主の顔を教えない。残るのは、手と、癖と、歩幅だけだった。

波が、来ては、引いた。

思っていたより、低い音だった。蒼子の言っていた波の音は、これか、と玲は思った。夢として聞くなら、確かに悪くない。ただ、記憶の中の男は、この音を良い音として聞いていなかった。体の強張りで、それが分かる。男は波よりも、防波堤の付け根へ続く道のほうを、何度も振り返っていた。海を見に来たのではない。ここしか、見張れる場所がなかったのだ。


男は防波堤の根元まで戻ると、消波ブロックの陰に腰を下ろした。

風が、少しだけ弱まる。男の右手が、コートの内側から黒いものを取り出した。直径三センチの、カートリッジだった。空の。まだ何も入っていない。装填前の軽さが、握る手の力の抜き方で分かった。

男はそれを、長いあいだ見ていた。それから、缶コーヒーの残りを一口飲んだ。冷めきった、甘ったるい味が、玲の舌に届いた。他人の舌で味わう甘さは、砂糖のかたちをした情報のはずだった。情報のはずのものが、喉の奥まで、ちゃんと落ちていった。

男は空き缶を足元に置き、誰もいない海に向かって、口を開いた。

「これを、受け取ったやつに言う」

声は風に半分持っていかれながら、それでも、まっすぐだった。低い声だ。耳ではなく、記憶の内側で鳴る声だった。

「あんたが誰かは、知らない。知らないまま渡すしかない。正規の便には乗せられない。乗せれば、荷物ごと、宛先ごと、消される」

波が、一度、大きく崩れた。

「だから、こういう形になった。悪いとは思ってる。──これは、盗品じゃない。荷物だ。宛名は、書けない。書いた瞬間に、宛名が死ぬ。だが、届け先は、ある」

男はそこで、時計をもう一度見た。速い見方だった。残りを確かめる見方だった。

「三つ数える橋の下だ。潮が引いたときにしか、開かない」

意味の取れない一行だった。男もそれを分かって言っている。分かる人間にだけ分かればいい、という言い方の一行だった。暗号ですらない。共有した時間のない人間には、辞書の引きようがない種類の、合鍵だった。

「頼む。届けてくれ。あんたが配達人なら──」

男は、そこで初めて、少しだけ笑ったようだった。視界は海を向いたままで、笑いは声の緩みだけで分かった。

「いや。これを受け取るのは、きっと配達人だ。そういうふうに、送る」

波の音が、急に大きくなった。

膨らんで、割れて、白く散って──

視界が、落ちた。


品川の部屋に、玲は戻っていた。

戻った、という言い方が正しいのかどうかは、分からない。椅子に座ったままだった。窓の外は、まだ夜だった。首の後ろの線は、もう冷たくなかった。体温と同じになったものは、体のほうから区別がつかなくなる。

テーブルの上で、機械の赤いLEDが消えていた。

玲は指先でechoの欄を呼び出した。指は、震えていた。震えを抑える手順を、今夜は踏まなかった。欄には、ゼロ、とあった。缶の底は空になっていた。校正は一機につき一度きり。鉛筆の字のとおりだった。世界にひとつ残っていた波の音は、いま、玲の頭の中にしかない。

口の中に、薄く塩の味がした。ありえない味だった。転写されるのは波形で、海水は運ばれない。分かっていても、舌は塩を覚えていた。脳が組み立てた体験は、理屈の上では他人のものだと区別がつく。諏訪の言ったとおりだ。区別はついている。ついたまま、味だけが残っている。

蒼子の夢のことを、思った。父の三日の中に、海はなかった。それでも彼女の夜には、波の音が鳴っていた。宛先を持たない荷物は、経由地の眠りの底で、毎晩、自分の中身を小さく再生していたのだろう。届かない荷物は、鳴る。誰かが受け取るまで、鳴りやまない。彼女はそれを、ひと月、子守唄のように聞いていたことになる。

配達だったのだ。

玲は、暗い運河のほうへ目をやって、その一語を頭の中で置き直した。混入ではなかった。事故でもなかった。正規の便に乗せられない荷物が、検査の缶の底という誰も見ない荷台を選んで、運ばれてきた。宛名のない配達。そして荷物は、依頼書ごと届いた。届け先は、ある。三つ数える橋の下。潮が引いたときにしか、開かない。

蒼子の頭は、経由地ですらなかったのかもしれない。回収に来た連中は、荷物を消したつもりでいる。だが荷物は、消される前に、受取人の頭まで降りている。十年前の壊れた機械と、捨て方を知らない缶の底を、狭い水路のように通り抜けて。送った男の言葉が、もう一度戻ってくる。これを受け取るのは、きっと配達人だ。そういうふうに、送る。

証拠としては、これで完全に死んだ。玲はそのことも、順番に理解した。缶は空になり、機械は役目を終え、波の音は玲の頭の中にしか存在しない。認知犯罪課に持ち込めるものは、もう何ひとつない。頭の中の体験は、法廷では夢と同じ扱いを受ける。七尾を呼ぶ理由は、昨日より、さらに薄くなった。荷物と一緒に、退路も受け取ったことになる。

偶然に運ばれたのではない。選ばれた水路だった。そこまで考えて、玲は、それ以上考えることをやめた。考えの先に、五年前の夜の輪郭が見えていた。芯の欠けた、あの夜の輪郭が。近い相手は、弾かない。今夜はもう、あの言葉のそばに寄らないほうがいい。

明日、考える。玲はそう決めて、立ち上がった。膝が、一拍遅れてついてきた。

上着を脱ぐ。椅子の背にかけようとして、手が、止まった。

上着は、裏返しに畳まれて、玲の腕に載っていた。袖を内側に折り込み、裏地を外にして、二つに畳む。丁寧な、几帳面な畳み方だった。畳んだ記憶が、玲にはなかった。手が、勝手にそう畳んでいた。

十七年、玲は上着をそんなふうに畳んだことが、一度もない。