NOVLUM
日向の椅子の表紙

日常・ほのぼの / 短編

日向の椅子

作:NOVLUM編集部 ・ 開始 2026.07.05 ・ 最終更新 2026.07.05

商店街の端で四十年、赤白青の看板をまわし続ける床屋の{徳三|とくぞう}のもとへ、どこの店でも散髪の途中で泣いてしまう五歳の{湊|みなと}がやってくる。日の当たる椅子と、あたたかいタオルと、急がないという流儀。閉めることばかり考えていた老いた手が、その午後もう一度、ハサミを握り直す——

#短編#日常#ほのぼの#週刊短編#理髪店#商店街

日向の椅子

「今日は、ぜったいに泣かないから」

そう言った男の子は、店の扉を開けた瞬間に、母親の手をきゅっと握り直した。頭の上で鈴がひとつ鳴って、その音が店の奥まで転がっていく。

徳三とくぞうは鏡越しにその子を見た。五つか、六つか。前髪が眉にかかって、目の上で重たそうに揺れている。名前はみなとというらしい。三日前、母親が電話で予約をよこしたとき、消え入りそうな声で「うちの子、どこの床屋さんでも泣いてしまって」と言い添えていた。

「いらっしゃい」

徳三はハサミを置いて、ゆっくりと椅子ごと振り返った。急がない。急ぐと、子どもはもっと固くなる。四十年、この鏡の前で覚えたことのひとつだった。

〈とこや とくみつ〉は、商店街のいちばん端にある。両隣はもう長いこと空き店舗で、昼でも人通りはまばらだ。赤と白と青の看板だけが、誰に見せるでもなく、律儀にまわり続けていた。

湊は入口で足を止めたまま動かない。母親が背中をそっと押す。

「ほら、こんにちは、は」 「……こんにちは」

蚊の鳴くような声だった。徳三は小さくうなずいて、窓際の椅子をぽんと叩いた。

「こっちだ。いちばん、日の当たる席」

午後の光が、その革張りの椅子にまっすぐ落ちていた。座面のひなたが、猫の背中みたいにあたたかいことを、徳三は知っている。子どもはたいてい、そこに座ると肩の力を少しだけ抜くのだ。

けれど湊は動かなかった。母親の腕の後ろに半分だけ身を隠して、椅子の背もたれあたりを、じっとにらんでいる。そこに何か、こわいものが座っているとでもいうように。徳三は無理に手を引かなかった。子どもというのは、こちらが一歩踏み込むと、きまって二歩さがるものだ。


「三つ目なんです、このお店」

湊がトイレに立ったすきに、母親が声をひそめて言った。年季の入った丸椅子に浅く腰かけて、膝の上でハンカチを畳んだり広げたりしている。

「駅前の大きなところと、チェーンのお店と。どっちも、途中で泣いちゃって。ハサミの音が近づいてくると、もう」

「なるほどな」

徳三は湯を沸かしにかかった。古いやかんが、しゅうしゅうと低い声を出しはじめる。

「あのバリカンの、ぶうん、っていう音がだめみたいで。首のうしろにあてられると、もう身体がこう、固まっちゃって」

母親は自分の首を縮めてみせた。笑おうとして、うまく笑えていない。この人も、疲れているのだと徳三は思った。子どもの髪ひとつ切るのに、母親が三軒の店を回って、そのたびに頭を下げる。そういう疲れの匂いを、長年のあいだに嗅ぎ分けられるようになっていた。

湊が戻ってくる。徳三は湯気の立つタオルを固く絞って、両手で包むようにして持った。

「湊くん。これ、あったかいぞ。ほっぺにあててみるか」

男の子は警戒した目のまま、それでもおずおずと頬を寄せてきた。タオルがふれた瞬間、こわばっていた眉のあたりが、ほんの少しだけほどける。

「……あったかい」 「そうだろう。うちのは、ぬるいのは出さん」

湊の口の端が、ほんのわずかに上がった。徳三はそれを見逃さなかった。


椅子に座らせるまでに、二十分かけた。

急がないというのは、何もしないということではない。徳三はまず、自分の白衣のポケットからハサミを出して、湊の目の前でゆっくり開いてみせた。

「これはな、切るための道具だ。だけどな、湊くんの許しがないと、動かないんだ」

「うそだ」

「ほんとだ。ためしに、動けって言ってみろ」

湊が小さな声で「うごけ」と言う。徳三は手をぴたりと止めたまま、真面目な顔でハサミを見つめた。

「動かないだろう。こいつは、こわがってる子のそばじゃ、動かないことにしてるんだ」

湊が、ふ、と息をもらした。笑いにならない笑いだった。けれど、さっきまで握りしめられていた小さな手が、いつのまにか少しだけ開いている。徳三はその手のひらに、丸めた新聞紙で作った小さな兜を、そっとのせてやった。

「じいさんもな、子どものころは、床屋がこわかった」

「うそ」

「ほんとだ。逃げて、犬小屋にかくれてな。親父にえらく叱られた」

湊が、こらえきれずに、ちいさく笑った。今度は、ちゃんと声になっていた。

「じゃあ、座ってみるか。日の当たるとこだ。あったかいぞ」

湊は母親を振り返った。母親がうなずく。男の子は、革の椅子によじ登った。ひなたのあたたかさが、ズボン越しに伝わってきたのだろう。座った瞬間、肩がまた、ほんの少しほどけた。

徳三は白い布をふわりと広げて、湊の首もとに巻いた。きつく締めない。指が一本入るくらいの、ゆるさを残しておく。

「バリカンは、使わん」

湊の目が、鏡の中で徳三を見た。

「今日はぜんぶ、こいつで切る」

そう言って、ハサミを鏡の光にかざしてみせた。しゃき、と一度、空を切る。澄んだ音だった。湊の肩が一瞬こわばって、それから、ゆっくりと下りていく。


切りはじめると、店の中が静かになった。

ハサミの、しゃき、しゃき、という音だけが、日の当たる店内に落ちていく。徳三の指は、湊の細い髪をすくいあげては、ほんの少しずつ形を整えていった。急がない。うなじにさしかかるときは、あらかじめ「ここ、ちょっとだけ、ひやっとするぞ」と声をかけた。

窓の外を、自転車が一台、のんびりと通り過ぎる。豆腐屋のラッパが、遠くで間の抜けた音を鳴らした。商店街の午後は、こんなふうに、ゆっくりと過ぎていく。

「湊くんは、大きくなったら何になるんだ」

髪をすきながら、徳三は聞いた。世間話ではなかった。子どもの気を、ハサミからそらしておくための、長年の手管だ。

「……きょうりゅうの、はかせ」

「ほう。恐竜の博士か。そりゃ、いい」

「いちばんつよいのは、ティラノじゃないんだよ。ギガノトサウルスっていうんだよ」

「知らんなあ。じいさんに教えてくれ」

湊が話しはじめる。舌ったらずの、けれど確信に満ちた声で。徳三は相づちを打ちながら、髪を切り続けた。男の子の首すじが、いつのまにか、まっすぐに伸びている。こわばりが、どこにもない。

母親が、丸椅子の上で、そっと口もとを押さえた。目が潤んでいるのを、徳三は鏡越しに見た。三軒目で、この子は初めて、泣かずに椅子に座っている。母親にとってそれが、どれほどのことか。徳三はハサミの手を止めず、気づかないふりをした。気づかないでいてやることも、この仕事のうちだった。

あたたかいタオルを出すのは、亡くなった妻の流儀だった。妙子たえこは、この店の奥の小さな流しで、湯を沸かしては、客の一人ひとりにタオルを絞っていた。ぬるいのは失礼だ、と口ぐせのように言っていた。冬でも、湯気の立つやつをな、と。妻が逝って三年、徳三はその手つきだけを、律儀に受け継いでいる。

湯を沸かすたびに、店の奥が、しゅうしゅうと妻の声で満ちる気がした。だからやかんの火を止められない。閉めよう閉めようと思いながら、朝が来ればまた、湯を沸かしてしまう。そういう三年だった。


「じいちゃんの手、あったかいね」

不意に、湊が言った。髪をすく徳三の指のことを言っているらしい。徳三は、ふ、と手を止めた。

「そうか」

「うん。おかあさんの手より、あったかい」

丸椅子のほうで、母親が小さく吹き出した。今度は、ちゃんと笑い声になっていた。徳三の胸の奥で、何かが、ことりと音を立てて動いた気がした。


仕上げに、うなじへ剃刀をあてる段になって、湊がぴくりと身をすくめた。

「だいじょうぶだ」

徳三は低く言った。あたたかいタオルを、もう一度うなじに当てる。湯気が、男の子の細い首すじを、やわらかく包んだ。

「じいさんの手はな、四十年、この仕事だけしてきた手だ。おまえが生まれるずうっと前から、ここで髪を切ってる」

剃刀が、すう、と滑る。湊は目をつぶって、じっとしていた。震えていない。徳三の指先に伝わってくるのは、あたたかい、生きているものの体温だけだった。

「はい、終わり」

布を外すと、湊は鏡の中の自分を見た。前髪が上がって、目もとがはっきりと見えるようになっている。男の子は、しばらくきょとんとして、それから、にっと笑った。乳歯の抜けた前歯の隙間が、鏡の中でのぞいた。

「泣かなかった」

「ああ。泣かなかったな」

「ぼく、泣かなかったよ!」

湊は椅子から飛び降りると、母親のところへ駆けていった。母親は、しゃがんで、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。何度も、うん、うん、とうなずいている。声は、出ていなかった。

徳三は、散らばった髪を箒で掃きながら、そちらを見ないようにしていた。喉の奥が、少しだけ熱かった。


会計のとき、母親は財布を出しながら、ためらいがちに聞いた。

「あの……また、来てもいいですか。この子の、次の散髪も」

徳三は釣り銭を渡す手を止めた。

じつを言えば、今月いっぱいで店を閉めようと思っていた。客はもう、昔からの年寄りが数えるほど。目もかすむし、立ちっぱなしの膝も、そろそろ限界だった。看板をまわすのも、朝の掃除も、いつまで続けられるかと、そればかり考えていた。

赤白青の看板は、誰に見せるでもなくまわり続けている。四十年、そうしてきたように。

湊が、店の入口で振り返った。

「じいちゃん、ギガノトサウルスの本、こんど持ってくるね」

徳三は、口を開いた。閉めるんだ、と言うつもりだった。

「……ああ。待ってるよ」

言葉は、思っていたのと違うほうへ転がっていった。自分でも、少し驚いた。

「じいさんは、逃げも隠れもせん。ここにいる。髪が伸びたら、また来い」

湊が、大きくうなずく。母親が深く頭を下げて、親子は鈴の音を残して出ていった。

店の中に、午後の光だけが残った。窓際の椅子の座面に、ひなたのぬくもりが、まだ小さく残っている。徳三は、それを手のひらでそっと確かめた。

閉めるのは、もう少し先でいい。

そう思いながら、彼は使ったハサミを、いつもより丁寧に拭いた。しゃき、と一度、空を切ってみる。澄んだ音が、誰もいない店に、静かに響いた。

エピソード一覧

まもなく第1話を公開予定です。